都農町(読み)つのまち

日本歴史地名大系 「都農町」の解説

都農町
つのまち

[現在地名]都農町川北かわきた

都農川の両岸に位置する在町で、北西はうりゆう村、北は岩山いわやま村、南は篠別府しのびゆう村。津野などとも記される。日向国一宮であった都農神社がある。「和名抄」に記載される児湯郡都野つの郷の遺称地とされる。伊東氏系図添状(定善寺文書)によれば、戦国末期の福永伊豆の乱の際、正財(平賀祐勝)は見回りのため財光寺ざいこうじ(現日向市)を出発、途中新納にいろ内の津野で福永方と出会い討取ったため、その後正財は野別府のびゆう五〇町のうち一三町を拝領したと伝える。日向北部から南部に至る浜の街道の要路に立地したため、天正六年(一五七八)の高城・耳川の合戦では一一月一二日、津野と耳川の間で大友方は豊後への退却途上、島津方の騎馬衆の待伏せ攻撃を受けている(「川上久辰耳川日記」都城島津家文書)。同一三年四月、宮崎地頭上井覚兼は狩などのため平岩ひらいわ塩見しおみ細島ほそしま(現日向市)などに赴いた帰り、同月一七日津野の松原の陰で小休をとっている。同年八月島津家久は覚兼とともに豊後境の検分に赴き、その帰りの同月二七日津野で一泊している(以上「上井覚兼日記」)。文禄三年(一五九四)四月豊臣秀吉の上奏により勅勘を被った近衛信輔(信尹)は薩摩坊津ぼうのつ(現鹿児島県坊津町)へ流されるが、その途中の五月一日耳川を渡ったのち「角松原」を通り、「アタリチカキ野原ニホエテアハレムカ我世ヲウシノ角ノ松原」と狂歌を詠じている(三藐院記)

都農町
つのちよう

面積:一〇二・一二平方キロ

児湯郡の北部に位置し、西部には雄大な尾鈴おすず県立公園が広がる。南西は木城きじよう町、北は東臼杵郡東郷とうごう町・日向市、南は名貫なぬき川を境に川南かわみなみ町、東は日向灘に面する。町の大部分が洪積台地で、北から征矢原そやばる川・心見こころみ川・都農川・名貫川が東流して日向灘に注ぐ。日向灘沿いをJR日豊本線が通り、都農駅と東都農駅がある。町の東部を南北に国道一〇号が通り、町の中心部で主要地方道都農―あや線を分岐する。町の総面積のうち耕地は一三・五パーセントで、山林が六四・四パーセントを占める。名貫川左岸の丘陵上には新別府下原しんびゆうしもばる遺跡があり、弥生時代後期末葉の竪穴住居跡や周溝状遺構が検出されたほか、縄文時代の打製石斧なども出土している。さかいだに岩山いわやま遺跡では弥生時代の竪穴住居跡の一部分が確認されている。また都農川河口付近の明田みようでんを中心とする一帯には積石塚からなる都農古墳群がある。

古代には「和名抄」に記載される児湯郡都野つの郷が当町域に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「都農町」の意味・わかりやすい解説

都農〔町〕
つの

宮崎県中部,日向灘にのぞむ町。 1920年町制。江戸時代は高鍋藩領。尾鈴山の東斜面は断層崖をなし,山麓に洪積台地,海岸段丘が発達している。町域の過半は山林で,その4分の3は国有林。木材の生産が多いが,主産業は農業で,米作のほか,トマト,キュウリカボチャなどの施設園芸が発達。都濃漁港があり,沿岸漁業も行われる。ウニは特産。都農川北岸に日向一宮都農神社がある。名勝尾鈴山瀑布群で知られる尾鈴県立自然公園に含まれる。 JR日豊本線,国道 10号線が通じる。面積 102.11km2。人口 9906(2020)。

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