貞光村(読み)さだみつむら

日本歴史地名大系 「貞光村」の解説

貞光村
さだみつむら

[現在地名]貞光町貞光

現貞光町の北部西寄り、東流する吉野川の右岸(南岸)に位置し、東は太田おおた村、南は東端ひがしはば山・西端山、西は半田はんだ(現半田町)、吉野川を挟み対岸北方は郡里こおざと(現美馬町)。北流して当地で吉野川に注ぐ貞光川のいわゆる谷口集落にあたり、同川左岸には若干の町場が形成された。「蜂須賀治世記」には「少し江町有り、然とも百姓町也」と記される。郡里村との間は半三郎はんざぶろう渡や喜来きらい渡が結んでいた。地内西浦にしうらには徳島藩の代官(貞光代官所)があった。同代官所は天正一四年(一五八六)に設置されたといい、表門・裏門・玄関・書院・役所・詰所・控所・土蔵・茶屋・白洲・留置所・会所・牢屋・宿番などの施設を備え(貞光谷見聞録・貞光町史稿)、代官の下に手代・目付各三がおり、ほかに馬取・捕手目明や数名の諸役人が勤務していたという(貞光荘記録)。東・西の端山はかつて当村のうちで、また貞光は定満とも書いた。天正一六年の定満谷年貢勘定目録帳(貞光町史)によると定満谷として板材・角材合せて三二八挺を上納している。ただしこの定満谷には当村のほかに東・西の端山も含まれていたと思われる。なお東・西の端山が当村から分れ、それまでの貞光村が三ヵ村となった時期について、「蜂須賀治世記」は文禄年中(一五九二―九六)のこととするが、端山が東・西に分れたのは徳島藩士長坂三郎左衛門が端山に給地を与えられた元和年中(一六一五―二四)のことと推定される(「阿波国御政務日記」武田家文書など)

慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に「さたみつ」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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