賀露村(読み)かろむら

日本歴史地名大系 「賀露村」の解説

賀露村
かろむら

[現在地名]鳥取市賀露町

千代川河口西岸にあり、南西から北東に流れる湖山こやま川が合流する。河口沖にとりヶ島・みや島がある。集落は河口から千代川・湖山川の西岸に沿って形成され、両川合流点の東にはない。「三代実録」貞観三年(八六一)一〇月一六日条に「賀露神」がみえ、鎌倉時代末期成立の因幡堂薬師縁起(東京国立博物館蔵)に「賀留津」、天正九年(一五八一)と推定される三月二〇日の吉川経家書状(吉川家文書)に「加路」とある。寛文大図(倉田八幡宮蔵)には「軽村」とみえる。江戸時代を通じて加路・賀路などの表記がみられ、船手役所関係の史料では村自体も賀露(加路)浦とよばれている。早くから南北に区分され(因幡民談記)、北部を下分しもぶん・下賀露といって漁業従事者が多く住み、賀露浦はおもにこの地域をさしているといわれる。南部は上分・上賀露とよばれ農業・商業を営む人が多かった。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳の当村の項注記によると上分・下分とも村役人は別で、五人組も分けられていた。藩が水主役の賦課などのため下分を別途に把握したのが両区分の起源と考えられる。

慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「賀路」とあり高八六〇石余、田六七町余・圃一一町三反余、物成六三六石余。正保国絵図正保郷帳では加路村と記されていたが、元禄国絵図・元禄郷帳作成の際賀露村に改められ、またこのとき高分けの枝郷晩稲おくて村・南隈みなみがくま村を分村した(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。正徳元年(一七一一)郷村高辻帳では高一千七九八石余で、分村した二村を除く拝領高相当分と思われる。両村分立時の状況を示すと考えられる加路村古図帳高分ケ書出帳写(賀露神社文書)によると総高の実高二千三二三石余で、晩稲・南隈両村分を除くと一千七二〇石余となり、ほかに賀露大明神領高一九石七斗と東善とうぜん寺領高二石八斗余がある。享保年間(一七一六―三六)と推定される年貢免状写(同文書)では生高一千七四三石、本免五ツ五分で、山札銀三匁五分を課されている。耕地の大半は本免を課される「岡田分」であるが、免四ツ五分の塩入分一〇七石余と免三ツの大塩入分三石余があり、物成控除分として定加損五一石余・春加損九一石余などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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