日本歴史地名大系 「賀露湊」の解説 賀露湊かろみなと 鳥取県:鳥取市旧高草郡地区賀露村賀露湊千代川河口部にある。「時範記」承徳三年(一〇九九)二月二六日条には、因幡国府(現国府町)から船に乗った平時範一行は、法美(ほうみ)川(袋川)を下って三嶋(みしま)社・賀呂社(現賀露神社)に赴いており、湊名はみえないものの、平安時代から因幡国の外港として重視され、法美川を媒介として国府と結ぶ物資輸送ルートが設けられていたと考えられる。鎌倉時代末期に成立した因幡堂薬師縁起(東京国立博物館蔵)に「賀留津」とあり、当湊付近の海中からのちに因幡堂(現京都市下京区)に祀られる薬師如来像が拾い上げられたという。「一遍上人絵伝」巻四にも因幡堂本尊が同様に「賀留の津」から出現したことが記される。室町時代には湖山(こやま)池東岸にあった布施(ふせ)の守護所と湖山川を媒介として直結していたと考えられる。天正九年(一五八一)に鳥取城番として赴任した吉川経家は「加路」に上陸した(三月二〇日「吉川経家書状」吉川家文書)。鳥取籠城衆の一人であった山県長茂は大河(千代川)は「かるの湊」へ落ち、同所を「因幡国中舟入」と述べている(寛永二一年「山県長茂覚書」同文書)。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦後、邑美(おうみ)・法美・巨濃(この)・八上(やかみ)四郡を与えられて鳥取に入封した池田長吉は、鳥取城下整備のために河口の湊を必要とした。これに対し当湊を含む高草郡を領する鹿野(しかの)城(現鹿野町)の亀井茲矩は八上郡内袋河原(ふくろがわら)(現河原町)で取水する用水開削を望んでいたことから、池田・亀井両氏は当湊と袋河原を交換、当湊は池田長吉領となったと伝える(因幡民談記)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by