(井上寛司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
戦国時代~江戸初期の武将、因幡(いなば)国(鳥取県)鹿野(しかの)城主。初名は真矩(さねのり)、通称新十郎、武蔵守(むさしのかみ)。出雲(いずも)国(島根県)湯之庄(ゆのしょう)出身の土豪で代々湯氏を称し尼子(あまご)の家臣であった。尼子滅亡後山中幸盛(ゆきもり)(鹿之介(しかのすけ))らと主家再興を図り、尼子の重臣亀井秀綱の遺子(幸盛の養女)を妻とし亀井氏を継いだ。やがて織田信長に属し豊臣秀吉(とよとみひでよし)配下、播磨(はりま)・因幡に転戦し、功により因幡鹿野城主、1万3500石を領した。秀吉の死後は家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に属した。ついで家康の命で因幡・伯耆(ほうき)を平定、功により2万4500石加増、すべて3万8000石を領した。
領内の干拓、殖産興業に実績をあげ、伯耆銀の発掘、東南アジアへの朱印船の派遣など多彩な足跡を残した。慶長(けいちょう)17年正月26日鹿野にて死、56歳。嗣子(しし)政矩(まさのり)は石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)へ移封され、子孫は代々津和野藩主である。
[松尾 寿]
安土桃山時代の武将。尼子氏の旧臣で出雲の人。湯氏を称しており茲矩のとき亀井氏と改める。織田信長の陪臣で後に独立の武将となり,信長の死後は豊臣秀吉に仕え1585年(天正13)には従五位下武蔵守を許され,文禄・慶長の役にも渡海した。関ヶ原の戦では東軍に属し,功により2万4500石加増され因幡国に3万8000石を領した。秀吉から琉球守を許されたという伝承や,朱印船貿易家としての活躍が示すように外国への関心が強かった。
執筆者:高橋 公明
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…旧国名。因州。現在の鳥取県の東半部。
【古代】
山陰道に属する上国(《延喜式》)。律令制下の因幡国は巨濃(この),邑美(おうみ),法美(ほうみ),八上(やかみ),智頭(ちず),高草,気多(けた)の7郡50郷からなり,国府は千代川の支流袋川流域の法美郡稲羽郷に置かれた。国内中央部を北流して日本海にそそぐ千代川流域周辺は,大化前代以来因幡国の政治・文化の中心地をなしており,この地域には多数の前方後円墳が築造され,条里制遺構も顕著で,国府周辺の国分寺をはじめ古廃寺跡も多数存する。…
…近世大名。もと紀伊の神官,豪族。初め鈴木を名のったが,六郎重清のとき,源義経に従い,その子盛清は紀伊亀井に住んで氏としたという。戦国期に出雲に移り尼子氏家臣となる。秀綱に男子なく,出雲の豪族湯茲矩(これのり)が亀井家を継ぎ,尼子氏滅亡後は織田信長,豊臣秀吉に仕えて因幡鹿野城主。関ヶ原の戦では東軍に属し,3万8000石に加増。1617年(元和3)その子政矩のとき,石見津和野に移封(4万3000石)。維新後,子爵。…
※「亀井茲矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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