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亀井茲矩 かめいこれのり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

亀井茲矩
かめいこれのり

[生]弘治3(1557).出雲
[没]慶長17(1612).1.26. 因幡,鹿野
安土桃山時代の武将。佐々木氏の支流で出雲の豪族。湯佐衛門尉永綱の子。初名は新十郎。代々尼子氏に仕えた。山中幸盛の娘をめとり,亀井氏を称した。のち織田信長に仕え,羽柴秀吉に属して毛利氏と戦い,因幡鹿野城主となり,天正 11 (1583) 年因幡1万 3800石を領した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

亀井茲矩 かめい-これのり

1557-1612 織豊-江戸時代前期の大名。
弘治(こうじ)3年生まれ。尼子氏の旧臣山中幸盛にしたがい,のち織田信長,豊臣秀吉につかえた。天正(てんしょう)9年因幡(いなば)(鳥取県)鹿野城主。九州攻め,朝鮮出兵に従軍。関ケ原の戦いでは東軍に参加して鹿野藩主初代(3万8000石)となる。東南アジアとの朱印船貿易に力をそそいだ。慶長17年1月26日死去。56歳。出雲(いずも)(島根県)出身。初名は真矩(さねのり)。通称は新十郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

亀井茲矩

没年:慶長17(1612)
生年:弘治3(1557)
戦国時代の武将,江戸時代初期の大名。父は尼子氏家臣湯左衛門尉永綱,母は多胡辰敬の娘という。はじめ真矩,通称新十郎。武蔵守。尼子氏の滅亡後諸国を流浪し,天正1(1573)年因幡国に来住,尼子氏再興を図る旧臣山中鹿介幸盛に従って各地に転戦。同2年,幸盛の養女を妻に迎え,同じく尼子氏の旧臣で幸盛の外舅に当たる亀井秀綱の家号を継ぐ。のち幸盛と共に織田信長に属し,幸盛が死去するとその部下を率いて羽柴(豊臣)秀吉に属した。同8年因幡国に入り,鹿野城(鳥取県気高郡鹿野町)にこもって毛利軍と戦い,秀吉の鳥取(久松山)城攻略に貢献,同国気多郡に1万3800石を与えられ鹿野城主となる。その後,九州征討,朝鮮出兵にも従軍,秀吉から琉球征服の朱印を得,琉球守と称した。慶長5(1600)年の関ケ原の戦では徳川家康方に属し,家康より同国高草郡をあてがわれ,計3万8000石を領した。気多郡日光池や高草郡湖山池の干拓を手掛け,千代川左岸に延長22kmにもおよぶ大井手用水を設ける。南方種の稲を栽培させ,桑・楮の植樹に努めるなど産業の振興を図るとともに,文禄年間(1592~96)から伯耆国日野郡の銀山を経営した。また慶長12(1607)年から3度にわたってサイヨウ(マカオ周辺),シャム(タイ)に貿易船を派遣。家康とシャム国王の仲介にも努めている。<参考文献>『鳥取県史』2巻

(井上寛司)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

かめいこれのり【亀井茲矩】

1557‐1612(弘治3‐慶長17)
安土桃山時代の武将。尼子氏の旧臣で出雲の人。湯氏を称しており茲矩のとき亀井氏と改める。織田信長の陪臣で後に独立の武将となり,信長の死後は豊臣秀吉に仕え1585年(天正13)には従五位下武蔵守を許され,文禄・慶長の役にも渡海した。関ヶ原の戦では東軍に属し,功により2万4500石加増され因幡国に3万8000石を領した。秀吉から琉球守を許されたという伝承や,朱印船貿易家としての活躍が示すように外国への関心が強かった。

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大辞林 第三版の解説

かめいこれのり【亀井茲矩】

1557~1612) 安土桃山時代・江戸初期の武将。通称、新十郎。出雲尼子氏の臣であったが、豊臣秀吉に仕え因幡国鹿野城主となる。殖産につとめ、伯耆国石見銀山をも経営。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、のち朱印船貿易にも力を注いだ。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

亀井茲矩
かめいこれのり
(1557―1612)

戦国時代~江戸初期の武将、因幡(いなば)国(鳥取県)鹿野(しかの)城主。初名は真矩(さねのり)、通称新十郎、武蔵守(むさしのかみ)。出雲(いずも)国(島根県)湯之庄(ゆのしょう)出身の土豪で代々湯氏を称し尼子(あまご)の家臣であった。尼子滅亡後山中幸盛(ゆきもり)(鹿之介(しかのすけ))らと主家再興を図り、尼子の重臣亀井秀綱の遺子(幸盛の養女)を妻とし亀井氏を継いだ。やがて織田信長に属し豊臣秀吉(とよとみひでよし)配下、播磨(はりま)・因幡に転戦し、功により因幡鹿野城主、1万3500石を領した。秀吉の死後は家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に属した。ついで家康の命で因幡・伯耆(ほうき)を平定、功により2万4500石加増、すべて3万8000石を領した。
 領内の干拓、殖産興業に実績をあげ、伯耆銀の発掘、東南アジアへの朱印船の派遣など多彩な足跡を残した。慶長(けいちょう)17年正月26日鹿野にて死、56歳。嗣子(しし)政矩(まさのり)は石見(いわみ)国(島根県)津和野(つわの)へ移封され、子孫は代々津和野藩主である。[松尾 寿]

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世界大百科事典内の亀井茲矩の言及

【因幡国】より

…旧国名。因州。現在の鳥取県の東半部。
【古代】
 山陰道に属する上国(《延喜式》)。律令制下の因幡国は巨濃(この),邑美(おうみ),法美(ほうみ),八上(やかみ),智頭(ちず),高草,気多(けた)の7郡50郷からなり,国府は千代川の支流袋川流域の法美郡稲羽郷に置かれた。国内中央部を北流して日本海にそそぐ千代川流域周辺は,大化前代以来因幡国の政治・文化の中心地をなしており,この地域には多数の前方後円墳が築造され,条里制遺構も顕著で,国府周辺の国分寺をはじめ古廃寺跡も多数存する。…

【亀井氏】より

…近世大名。もと紀伊の神官,豪族。初め鈴木を名のったが,六郎重清のとき,源義経に従い,その子盛清は紀伊亀井に住んで氏としたという。戦国期に出雲に移り尼子氏家臣となる。秀綱に男子なく,出雲の豪族湯茲矩(これのり)が亀井家を継ぎ,尼子氏滅亡後は織田信長,豊臣秀吉に仕えて因幡鹿野城主。関ヶ原の戦では東軍に属し,3万8000石に加増。1617年(元和3)その子政矩のとき,石見津和野に移封(4万3000石)。維新後,子爵。…

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