奈良井村(読み)ならいむら

日本歴史地名大系 「奈良井村」の解説

奈良井村
ならいむら

[現在地名]楢川村大字奈良井

鳥居とりい峠の北麓の奈良井宿を中心に、奈良井川の上流に川入かわいり下流平沢ひらさわの二つの小村を控えている。

鳥居峠の天険を控え、木曾氏の北方の固めとして一族奈良井氏が山城を築き、居館を構えていた(西筑摩郡誌・奈良井村誌)。「二木家記」には天文一七年(一五四八)「桜沢へかゝり奈良井孫右衛門所にて、飯米合力を請」とあり、永禄一一年(一五六八)の伝馬文書にも宿として「奈良井」の名が出てくる。

奈良井村
ならいむら

[現在地名]中条村住良木すめらぎ

東は青木あおき村と、西は竹生たけぶ(現小川村)と境し、土尻どじり川に臨む農山村。村名の初見は、慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に、「三百四拾弐石六斗七升八合 奈良井村」とある。元禄の松城領高辻帳の添目録(大日方文書)に、当時の枝村として、塩本しおもと村・持畔もちくろ村・戸富ととみ(鳥々見)須坂すさか村・上奈良井かみならい村・下奈良井村・太田おおた村・桑六遠くわろくとお村・戸谷とや村・みね村の一〇ヵ所を記していて、江戸時代初からの散村であった。

奈良井村
ならいむら

[現在地名]吉川町豊岡とよおか

おき村の南に位置し、吉川川上流右岸の丘陵地に立地する。中世吉河よかわ竹原たけわら村に隣接していた。永仁五年(一二九七)一〇月二日の某袖判下文(石峯寺文書)端裏書に「奈良井下知正文」とみえ、僧蓮生は石峯しやくぶ(現神戸市北区)から浄信名(奈良井に所在)内の田畠知行を認められている。この浄信名は承久四年(一二二二)二月以前に石峯寺が存在した場所でもあったが、文保元年(一三一七)一二月一九日(二九日か)、預所円能は竹原村奈良井にある浄信名の増田一段一五代を石峯寺修理料田として寄進している(預所円能寄進状「微考録」石峯寺文書など)

奈良井村
ならいむら

[現在地名]大台町高奈たかな

粟生あお村の西にあり、熊野街道に沿う。高瀬たかせ村との中間にある奈良井砦跡は自然地形を利用した中世後期の要害名残をとどめ、城主北畠氏の家臣奈良井某であったといわれている。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「奈良井高瀬村」と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報