赤松則繁(読み)あかまつ・のりしげ

朝日日本歴史人物事典 「赤松則繁」の解説

赤松則繁

没年:文安5(1448)
生年:生年不詳
室町時代の武将。義則の子。通称三郎。左馬助。将軍足利義教の近習であったが,嘉吉1(1441)年6月の義教弑逆事件では兄満祐の子教康と共に首謀者的役割を果たした。即日一族と共に播磨に下向し,8月,明石の和坂,9月,本拠城山城で室町幕府の追討軍と戦ったが相次いで敗れた(嘉吉の乱)。その後播磨を脱し,菊池氏を頼って九州に逃れたが,嘉吉3年ごろには朝鮮に渡って大暴れしていたという。倭寇に加わったものであろう。文安5(1448)年1月肥前に戻り,少弐教頼と共に大内教弘と戦ったが敗れ播磨,河内へと逃亡。7月の末ごろ,河内当麻に潜んでいたところを細川持常の指示を受けた甥の赤松則尚に討たれた。足利義持執政期の応永31(1424)年に,酒席での諍いから近習の安東某を刺殺するという事件を起こしたことがあり,直情型の性格が窺える。

(榎原雅治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松則繁」の解説

赤松則繁 あかまつ-のりしげ

?-1448 室町時代の武将。
赤松義則(よしのり)の子。赤松満祐(みつすけ)の弟。嘉吉(かきつ)元年兄とともに6代将軍足利義教(よしのり)を殺害(嘉吉の乱)。幕府の追討軍と播磨(はりま)(兵庫県)城山(きのやま)城でたたかい,敗れて九州にのがれる。のち朝鮮にわたり文安5年肥前にもどる。少弐(しょうに)教頼とともに大内教弘(のりひろ)を攻めるが敗れ河内(かわち)(大阪府)へ逃亡。甥(おい)の赤松則尚に同年8月8日討たれた。49歳とされる。通称は三郎,左馬助。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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