朝日日本歴史人物事典 「足利義嗣」の解説
足利義嗣
生年:応永1(1394)
室町時代の武将。義満の子で義持の弟。母は室町幕府評定衆摂津能秀の娘(春日局)。義満には子女が多く,嫡男義持を除き男子は寺社掌握策に従って有力寺院の門跡に入れられ,高僧の地位を期待された。義嗣も幼少にして三千院に入室,稚児となった。しかし応永13(1406)年末,嫡妻康子を准母となし皇位簒奪計画が実行段階に至ったと判断した義満は,皇位継承者として義嗣に白羽の矢を立て,還俗させて康子の猶子とし,北山第南御所に住まわせた。以後義嗣は南御所若公と称された。同15年2月,藤原忠実に倣って童殿上(童形での参内)を遂げ,義嗣と命名されて従五位下に叙された。同3月,義満は後小松天皇に北山第行幸を仰いだが,この儀式は義満が上皇として天皇を迎える朝勤行幸に倣い,かつ義嗣を次期天皇として諸人に披露するものであった。義嗣は天盃を受けて廷臣蹲踞のなかで舞踏し,この行幸中左馬頭に任官,還幸後,従四位下左中将に上る。翌月25日内裏で親王元服に準拠して元服,参議,従三位に叙任。以後公家から若宮と称され,後小松から受禅を待つばかりとなったが,5月6日義満が急死し簒奪は未遂に終わる。同18年,従二位権大納言に上るが将軍足利義持との間に不信を生じ,同22年の北畠満雅の乱,翌年の上杉禅秀の乱に謀反を唆された。同年10月神護寺に出奔したが捕らえられ,幽囚ののち殺害される。武家の身で初めて皇位に擬せられた人物として重要。
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報