足利義嗣(読み)あしかが よしつぐ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「足利義嗣」の解説

足利義嗣 あしかが-よしつぐ

1394-1418 室町時代武将
応永元年生まれ。足利義満次男三千院にはいったが,父の寵愛(ちょうあい)をうけ応永15年還俗(げんぞく)。家督相続者と目されていたが,父が死ぬと兄義持(よしもち)が4代将軍となり,兄弟対立がふかまる。上杉禅秀の乱に呼応して挙兵をくわだてるが失敗,京都相国(しょうこく)寺に幽閉され,応永25年1月24日殺された。25歳。法名は道純。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「足利義嗣」の意味・わかりやすい解説

足利義嗣
あしかがよしつぐ

[生]応永1(1394)
[没]応永25(1418).1.24. 京都
室町時代の武将。義満の子。三千院に入室,のち還俗し,上杉氏憲 (禅秀) や足利満隆と結び,将軍義持に反逆して殺された。 (→上杉禅秀の乱 )  

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世界大百科事典(旧版)内の足利義嗣の言及

【足利義持】より

…室町幕府4代将軍。1394‐1423年(応永1‐30)在職。義満の子。母は醍醐寺三宝院坊官安芸法眼の女藤原慶子。1394年12月17日元服して征夷大将軍となったが,その後も父義満が政務を執った。しかも義満の義嗣(義持の異母弟)偏愛が始まり,家督相続が危ぶまれたが,1408年(応永15)義満が死ぬと,管領斯波義将らの支持を得てその地位を保全した。翌年7月内大臣になり,10月には北山第から,新築成った三条坊門第に移った。…

【上杉禅秀の乱】より

…第2に持氏と叔父の満隆との間が不和であり,満隆が鎌倉公方への野心を持っていたこと。第3に足利義嗣が将軍への野望を抑えきれず,各地の反幕府分子と手を結んでいたことなどであり,鎌倉府成立後における幕府と鎌倉府の反目も微妙に影響していた。また惣領制の解体や国人一揆の形成など,東国の社会的変化も見逃すことのできない原因の一つといえよう。…

※「足利義嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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