車坂町
くるまざかちよう
[現在地名]港区虎ノ門三丁目
虎御門外西久保に位置する片側町。西久保車坂町ともよぶ。町地は二ヵ所に分れており、北の町地は汐見坂から西久保通への途中にあり、北・南・東は西久保新下谷町、西は石見浜田藩松平家上屋敷。南の町地は西久保通沿いにあり北と西は西久保新下谷町、東は同通を隔てて天徳寺門前町、南は浜田藩上屋敷。古くは下谷にあり下谷車坂町(現台東区)と唱えていたが、元禄一一年(一六九八)九月六日火災によって類焼し御用地として召上げられ、数ヵ所に代地を与えられた。
車坂町
くるまざかちよう
[現在地名]上野市車坂町
上野城下町の東端、町の東の坂下を車川(現矢谷川)が流れる。車川の名は東方約二キロの荒木山の車塚辺りから流れ出るので、この名があるという(伊賀考)。「宗国史」伊賀志に車阪町ともある。寛永絵図(岡森明彦氏蔵)では伊賀街道がすでに当町を東西に貫通して農人町に続き、町の北と東は崖で、北部には藤堂内匠(のち同姓玄蕃)、車坂口の南側に桑名弥次兵衛、その南に藤堂式部の下屋敷があり、城下町の外郭を固めている。延宝(一六七三―八一)頃の家数四〇、うち九は出屋敷とある(統集懐録)。出屋敷は南の野畠に接する辺りをいうのであろう。元禄一二年(一六九九)この辺りに、土塀と土塁の二重囲いの中に藩の焔硝蔵が造られ(永保記事略)、宝暦一一年(一七六一)長者屋敷の原野に移された(庁事類編)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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