元和八年(一六二二)二代将軍徳川秀忠は上野忍ヶ岡にあった伊勢阿濃津藩主藤堂高虎・越後村上藩主堀直寄・陸奥弘前藩主津軽信牧らの屋敷地などを収公、
東叡山全体は門主以下執当・年行事・学頭などにより運営された。執当は東叡山および天台宗管領の実務一切を取扱い、学頭・各御霊廟別当を除く子院の住職(衆徒)から原則として二名が選出され、輪王寺宮から院室号を与えられて院家を名乗った。執当は初め上野役者とよばれ、寛永年間の最教院晃海と双厳院豪俔が最初である(「執当譜」など)。年行事は執当の下で山内の各種行事の運営や諸堂の修造、寺領からの収納米見分、府庫金の管理(安永三年以降)などの実務に従事した。年行事も衆徒のなかから毎年二名が選出された。一山の学務一切を管理する学頭は正保四年以降
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東京都台東(たいとう)区上野桜木、上野公園北端にある、天台宗の関東総本山。東叡山円頓院(とうえいざんえんどんいん)と号する。1625年(寛永2)、天海僧正(てんかいそうじょう)が江戸城鎮護を祈願し、幕府から上野台地の一部を拝領して創立。天海は、徳川家康、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)に深く帰依(きえ)され、武蔵(むさし)国(埼玉県)川越の喜多院(きたいん)に住していたが、上野に本坊が落成するとともに移り、勅許を得て東叡山寛永寺円頓院と称した。東叡山は比叡山に倣い、関東の叡山という意味から、寛永寺はその創建年号により、円頓院は天台宗で行う大乗戒の円頓戒にちなんで号された。本坊の落成に続き、徳川家一門や諸大名がそれぞれ堂塔神祠(しんし)を建立寄進(こんりゅうきしん)、創建当時は堂塔32、子院36坊を擁した。1698年(元禄11)徳川綱吉(つなよし)は江戸第一の大きさを誇る根本中堂(焼失)を建立、東山(ひがしやま)天皇から「瑠璃殿(るりでん)」の勅額を賜った。寺領もしだいに増し、忍ヶ岡(しのぶがおか)一帯に36万坪(約118万8000平方メートル)の広大な寺域を領し、幕府の保護のもとに隆盛を極めた。
天海没後は第2世公海(こうかい)大僧正、第3世守澄法親王(もりずみほうしんのう)が継いだ。かねてから幕府は法親王の東下住持を要請、それに応じて1647年(正保4)後水尾(ごみずのお)天皇の第3皇子尊敬法親王(のちに守澄)が入山。法親王は54年(承応3)には日光山輪王寺(りんのうじ)の門主となり、翌年さらに天台座主(ざす)をも兼ね、東叡、日光、比叡の三山を管掌して輪王寺宮の号を賜り、管領(かんれい)の宮ともよばれた。その後、15世公現(こうげん)法親王までは皇族が継ぎ、以後は天台宗の高僧が法統を継承して輪王寺門跡(もんぜき)とよばれた。輪王寺門跡は寺領1万1790石を領し、現在の東京国立博物館の地が輪王寺宮歴代法親王の本坊旧跡である。
1868年(慶応4)一山は戊辰(ぼしん)戦争における彰義隊の本拠となり、建造物の大半を焼失、現在は清水観音(きよみずかんのん)堂、旧本坊表門、五重塔、常憲(じょうけん)院霊廟(れいびょう)の勅額門、水盤舎(すいばんしゃ)など国重要文化財をはじめ、東照宮、釈迦(しゃか)堂(都重要文化財)などが残る。現在の本堂は明治時代に喜多院から移したものである。寺内には徳川家霊廟があり、家綱(いえつな)(厳有院(げんゆういん)殿)、綱吉(常憲院殿)、吉宗(よしむね)(有徳院殿)、家治(いえはる)(浚明院(しゅんみょういん)殿)など歴代将軍およびその夫人らが祀(まつ)られている。また、寛永寺書院の一部に、大政奉還(たいせいほうかん)(1867)後に徳川慶喜(よしのぶ)が謹慎した「葵(あおい)の間」がある。
なお、天海が1637年(寛永14)から12年間にわたって成した一切経(いっさいきょう)開板は日本における大蔵経(だいぞうきょう)完刻の初めであり、俗に天海版(寛永寺版)といわれる。寺宝の絹本着色両界曼荼羅(まんだら)図、本尊の薬師(やくし)如来像および両脇侍(きょうじ)像は国重要文化財に指定されている。
[中山清田]
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東京都台東区上野にある天台宗の寺。山号は東叡山。院号は円頓院。1625年(寛永2)天海が幕府の命により創建。比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して,寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願した。将軍家のほかに御三家や諸大名が諸堂宇を寄進して,一山36坊の大伽藍が出現した。43年の天海の死後,公海が2世住職となり,さらに47年(正保4)に後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し,55年(明暦1)に輪王寺宮と号して以後,代々の輪王寺宮が寛永寺住職となった。歴代の輪王寺宮は日光門主・天台座主となって,関東のみならず全国の天台宗寺院を統轄するに至り,幕府の宗教政策を支えた。一山の大伽藍はおもに寺領によって維持された。46年(正保3)に武蔵国豊島郡の田端・中里など7ヵ村に2100石の朱印地が寄進され,以後,芝の増上寺とともに将軍(家光,家綱,綱吉,吉宗,家治,家斉,家定)の菩提所としての御霊屋料が寄進され,1718年(享保3)からは三之輪・町屋や徳丸・四つ葉村などにつごう約1万2000石の大名なみの寺領が与えられ,それは明治維新まで続いた。1868年(明治1)5月15日彰義隊の戦いで堂舎の大半を失ってしまったが,五重塔・開山堂・清水観音堂などが現存し,その後再興された根本中堂などがある。境内の大部分が73年上野公園となって以来,博物館・美術館・動物園などの設立もあって,市民に親しまれてきた。
執筆者:高埜 利彦
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東京都台東区にある天台宗の寺。東叡山円頓院と号す。天海が3代将軍徳川家光に進言し,江戸城の鬼門にあたる上野忍岡(しのぶがおか)に比叡山にならって伽藍を建立。1625年(寛永2)幕府の助力のもとに本坊が完成した。54年(承応3)後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)入道親王が3世として入山。以来天台座主を兼ねた日光山輪王寺門跡(りんのうじもんぜき)が住持する寺となり,天台宗の実権を握った。増上寺とともに徳川家の菩提寺となり,家綱・綱吉・吉宗・家治・家斉(いえなり)・家定6代の将軍と夫人の廟が設けられる。寺領は1万余石に及び,広大な寺域には諸大名によって多くの堂舎が建立された。1868年(明治元)戊辰戦争で彰義隊の拠点となり,戦火で多くを焼失。のち寺域の大半が上野公園となった。
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…江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎らの屋敷があったため,上野の地名がついたといわれるが,周囲の低地から見て上野と名づけられたともいう。1625年(寛永2)に天海(慈眼大師)によって東叡山寛永寺が建てられ,清水堂付近は奈良の吉野山から移植された桜の名所となった。台地の南西下にあった潟湖は整備されて不忍池(しのばずのいけ)となり,周囲の低地は埋め立てられて町屋や武家屋敷ができた。…
…討手を助ける助太刀(すけだち)も幕府の奉行所に帳付を願うべきであった。敵討を禁止された場所は,禁裏御所築地内,江戸城曲輪(くるわ)内,寛永寺・増上寺両山内であった。以上の敵討であれば,敵を切り殺しても殺人の刑事責任を負わない。…
…江戸期に入って開拓が活発に行われ,坂本,竜泉寺などにも集落が成立,それと並行して下谷地域の市街地化が進んだ。まず上野台南麓,のちに子院36坊を擁する巨刹となった東叡山寛永寺の門前付近は,1625年(寛永2)の同寺創建以来,1619年(元和5)にできたと伝える下谷町を起点として急速に町場化した。28年ごろまでに同寺の門前町である大門町,黒門町,池之端仲町などが相次いで生まれ,元禄(1688‐1704)ごろには各種の商店や水茶屋,見世物小屋などが立ち並ぶ江戸有数の繁華街に発展した。…
…既決受刑者だけでなく未決の者も対象とし,これを当座の赦という。御法事の赦は,受刑者の親類が両山(徳川家菩提寺の寛永寺,増上寺)に赦を願い,両山からその名を記載した回赦帳を幕府に回付し,老中が裁決して,法事執行の寺で町奉行が赦を言い渡し,大僧正の教戒があってその場で放免したのである。赦は一定年限の刑期が経過していることと,改悛,謹慎の情いちじるしいことが条件で,犯罪者の改善を奨励することを主眼としたが,遠島や追放など,無期の刑罰については,赦の運用によって刑期を量定する機能をはたした。…
…17年天海の指示で家康の遺骨が日光山に移される(日光東照宮)。25年(寛永2)江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開いて関東天台宗総本山とし,これまでの中核であった喜多院を元の山号星野山にもどし,その権限を寛永寺に移した。37年寛永寺において活字版大蔵経の開板を企て,12年を経て48年(慶安1)に完成した。…
…日光山を総括,東叡山寛永寺を管領,比叡山の天台座主を歴任し,比叡山諸門跡の首班に列した法親王。1613年(慶長18)天海が日光山貫主に補せられ,17年(元和3)徳川家康の遺骸を日光山に改葬した。…
※「寛永寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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