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寛永寺 かんえいじ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

寛永寺
かんえいじ

東京都台東区にある天台宗の寺院。東叡山円頓院と号す。寛永1 (1624) 年より起工し,数年で完成。天海僧正が開山。江戸時代には諸大名の寄進などにより盛大であったが,明治1 (1868) 年,彰義隊の本拠となって多くの伽藍を焼失。

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デジタル大辞泉の解説

かんえい‐じ〔クワンエイ‐〕【寛永寺】

東京都台東区上野桜木にある天台宗の寺。山号は東叡山。院号は円頓院。寛永2年(1625)開創、開基は徳川家光、開山は天海。関東天台宗の中心。徳川家の菩提寺。現在の上野公園の全域が境内であった。境内に彰義隊の墓がある。

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百科事典マイペディアの解説

寛永寺【かんえいじ】

東京都台東区上野にある天台宗の寺。東叡山寛永寺円頓院と号す。天海の創建にかかり1624年着工。京都の御所と比叡山の関係にならい,江戸城の鬼門,上野忍ヶ岡に建てた。
→関連項目上野公園家相護持院不忍池忍岡増上寺天台宗左甚五郎輪王寺

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デジタル大辞泉プラスの解説

寛永寺

東京都台東区にある寺院。1625年創建。天台宗別格大本山。本尊は薬師瑠璃光如来。徳川家の菩提寺で、綱吉、吉宗など6人の将軍の墓がある。

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世界大百科事典 第2版の解説

かんえいじ【寛永寺】

東京都台東区上野にある天台宗の寺。山号は東叡山。院号は円頓院。1625年(寛永2)天海が幕府の命により創建。比叡山が京都の鬼門(北東)にあたるのに対して,寛永寺は江戸の鬼門にあたり東叡山と号して,江戸城鎮護と国家安穏長久を祈願した。将軍家のほかに御三家や諸大名が諸堂宇を寄進して,一山36坊の大伽藍が出現した。43年の天海の死後,公海が2世住職となり,さらに47年(正保4)に後水尾天皇の第3皇子守澄法親王が入山し,55年(明暦1)に輪王寺宮と号して以後,代々の輪王寺宮が寛永寺住職となった。

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大辞林 第三版の解説

かんえいじ【寛永寺】

東京都台東区上野公園内にある天台宗の関東総本山。山号は東叡山。徳川将軍家の菩提所。僧天海が1625年(寛永2)開山。寺領一万一千石。戊辰ぼしん戦争の戦火で堂舎の大半を焼失。五重の塔・霊廟などが残るほか、彰義隊の墓がある。その寺域のほとんどが現在の上野公園。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

寛永寺
かんえいじ

東京都台東(たいとう)区上野桜木、上野公園北端にある、天台宗の関東総本山。東叡山円頓院(とうえいざんえんどんいん)と号する。1625年(寛永2)、天海僧正(てんかいそうじょう)が江戸城鎮護を祈願し、幕府から上野台地の一部を拝領して創立。天海は、徳川家康、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)に深く帰依(きえ)され、武蔵(むさし)国(埼玉県)川越の喜多院(きたいん)に住していたが、上野に本坊が落成するとともに移り、勅許を得て東叡山寛永寺円頓院と称した。東叡山は比叡山に倣い、関東の叡山という意味から、寛永寺はその創建年号により、円頓院は天台宗で行う大乗戒の円頓戒にちなんで号された。本坊の落成に続き、徳川家一門や諸大名がそれぞれ堂塔神祠(しんし)を建立寄進(こんりゅうきしん)、創建当時は堂塔32、子院36坊を擁した。1698年(元禄11)徳川綱吉(つなよし)は江戸第一の大きさを誇る根本中堂(焼失)を建立、東山(ひがしやま)天皇から「瑠璃殿(るりでん)」の勅額を賜った。寺領もしだいに増し、忍ヶ岡(しのぶがおか)一帯に36万坪(約118万8000平方メートル)の広大な寺域を領し、幕府の保護のもとに隆盛を極めた。
 天海没後は第2世公海(こうかい)大僧正、第3世守澄法親王(もりずみほうしんのう)が継いだ。かねてから幕府は法親王の東下住持を要請、それに応じて1647年(正保4)後水尾(ごみずのお)天皇の第3皇子尊敬法親王(のちに守澄)が入山。法親王は54年(承応3)には日光山輪王寺(りんのうじ)の門主となり、翌年さらに天台座主(ざす)をも兼ね、東叡、日光、比叡の三山を管掌して輪王寺宮の号を賜り、管領(かんれい)の宮ともよばれた。その後、15世公現(こうげん)法親王までは皇族が継ぎ、以後は天台宗の高僧が法統を継承して輪王寺門跡(もんぜき)とよばれた。輪王寺門跡は寺領1万1790石を領し、現在の東京国立博物館の地が輪王寺宮歴代法親王の本坊旧跡である。
 1868年(慶応4)一山は戊辰(ぼしん)戦争における彰義隊の本拠となり、建造物の大半を焼失、現在は清水観音(きよみずかんのん)堂、旧本坊表門、五重塔、常憲(じょうけん)院霊廟(れいびょう)の勅額門、水盤舎(すいばんしゃ)など国重要文化財をはじめ、東照宮、釈迦(しゃか)堂(都重要文化財)などが残る。現在の本堂は明治時代に喜多院から移したものである。寺内には徳川家霊廟があり、家綱(いえつな)(厳有院(げんゆういん)殿)、綱吉(常憲院殿)、吉宗(よしむね)(有徳院殿)、家治(いえはる)(浚明院(しゅんみょういん)殿)など歴代将軍およびその夫人らが祀(まつ)られている。また、寛永寺書院の一部に、大政奉還(たいせいほうかん)(1867)後に徳川慶喜(よしのぶ)が謹慎した「葵(あおい)の間」がある。
 なお、天海が1637年(寛永14)から12年間にわたって成した一切経(いっさいきょう)開板は日本における大蔵経(だいぞうきょう)完刻の初めであり、俗に天海版(寛永寺版)といわれる。寺宝の絹本着色両界曼荼羅(まんだら)図、本尊の薬師(やくし)如来像および両脇侍(きょうじ)像は国重要文化財に指定されている。[中山清田]

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世界大百科事典内の寛永寺の言及

【上野】より

…江戸時代初期に伊賀上野を領していた藤堂高虎らの屋敷があったため,上野の地名がついたといわれるが,周囲の低地から見て上野と名づけられたともいう。1625年(寛永2)に天海(慈眼大師)によって東叡山寛永寺が建てられ,清水堂付近は奈良の吉野山から移植された桜の名所となった。台地の南西下にあった潟湖は整備されて不忍池(しのばずのいけ)となり,周囲の低地は埋め立てられて町屋や武家屋敷ができた。…

【敵討】より

…討手を助ける助太刀(すけだち)も幕府の奉行所に帳付を願うべきであった。敵討を禁止された場所は,禁裏御所築地内,江戸城曲輪(くるわ)内,寛永寺・増上寺両山内であった。以上の敵討であれば,敵を切り殺しても殺人の刑事責任を負わない。…

【下谷】より

…江戸期に入って開拓が活発に行われ,坂本,竜泉寺などにも集落が成立,それと並行して下谷地域の市街地化が進んだ。まず上野台南麓,のちに子院36坊を擁する巨刹となった東叡山寛永寺の門前付近は,1625年(寛永2)の同寺創建以来,1619年(元和5)にできたと伝える下谷町を起点として急速に町場化した。28年ごろまでに同寺の門前町である大門町,黒門町,池之端仲町などが相次いで生まれ,元禄(1688‐1704)ごろには各種の商店や水茶屋,見世物小屋などが立ち並ぶ江戸有数の繁華街に発展した。…

【赦】より

…既決受刑者だけでなく未決の者も対象とし,これを当座の赦という。御法事の赦は,受刑者の親類が両山(徳川家菩提寺の寛永寺,増上寺)に赦を願い,両山からその名を記載した回赦帳を幕府に回付し,老中が裁決して,法事執行の寺で町奉行が赦を言い渡し,大僧正の教戒があってその場で放免したのである。赦は一定年限の刑期が経過していることと,改悛,謹慎の情いちじるしいことが条件で,犯罪者の改善を奨励することを主眼としたが,遠島追放など,無期の刑罰については,赦の運用によって刑期を量定する機能をはたした。…

【天海】より

…17年天海の指示で家康の遺骨が日光山に移される(日光東照宮)。25年(寛永2)江戸上野に東叡山円頓院寛永寺を開いて関東天台宗総本山とし,これまでの中核であった喜多院を元の山号星野山にもどし,その権限を寛永寺に移した。37年寛永寺において活字版大蔵経の開板を企て,12年を経て48年(慶安1)に完成した。…

【輪王寺宮門跡】より

…日光山を総括,東叡山寛永寺を管領,比叡山の天台座主を歴任し,比叡山諸門跡の首班に列した法親王。1613年(慶長18)天海が日光山貫主に補せられ,17年(元和3)徳川家康の遺骸を日光山に改葬した。…

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