逸見猶吉(読み)ヘンミ ユウキチ

20世紀日本人名事典 「逸見猶吉」の解説

逸見 猶吉
ヘンミ ユウキチ

昭和期の詩人



生年
明治40(1907)年9月9日

没年
昭和21(1946)年5月17日

出生地
栃木県下都賀郡谷中村(現・藤岡町大字下宮)

本名
大野 四郎

学歴〔年〕
早稲田大学政経学部〔昭和6年〕卒

経歴
中学時代「蒼い沼」「二人」「VAK」などを発行し、ランボーの「母音」、チェホフの短編、メレジュコフスキーの「ミシェル・バクーニン」などを翻訳。昭和2年「鴉母」発行。翌年北海道を旅行し、4年代表作「ウルトラマリン連作の第1編「報告」を「学校」に発表、次いで「学校詩集」に「ウルトラマリン」連作を一括寄稿。このころ草野心平、高村光太郎らを知り、6年「弩」を発刊、7年季刊「新詩論」発刊で編集委員。10年同人8名と「歴程」を創刊。14年ハルビンに渡り満州生活必需品配給会社に勤務、「満州浪漫」同人。18年関東軍報道班員となり新京で敗戦を迎えた。草野心平編「逸見猶吉詩集」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「逸見猶吉」の意味・わかりやすい解説

逸見猶吉
へんみゆうきち
(1907―1946)

詩人。栃木県生まれ。本名、大野四郎。早稲田(わせだ)大学卒業。詩作は暁星(ぎょうせい)中学在学中より始め、1927年(昭和2)に個人詩誌『鴉母』創刊。28年には東京・神楽坂(かぐらざか)でバーを経営。30年、『学校』に連作『ウルトラマリン』を発表して注目される。32年に吉田一穂(いっすい)らと『新詩論』を創刊。35年に草野心平らと『歴程』を創刊。37年には満州(中国東北)に移り、39年『満洲(まんしゅう)浪漫』に参加。43年に関東軍の報道隊員として北満に派遣される。壮大でニヒル、暗い詩風をもち断続的リズムも特色となっている。46年(昭和21)長春で結核と栄養失調により死亡。没後、草野心平編『逸見猶吉詩集』(1948)が出版された。

[村田正夫]

『『定本逸見猶吉詩集』(1966・思潮社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「逸見猶吉」の解説

逸見猶吉 へんみ-ゆうきち

1907-1946 昭和時代前期の詩人。
明治40年9月9日生まれ。草野心平編集の詩誌「学校」と伊藤信吉編集の「学校詩集」に連作詩「ウルトラマリン」を発表して注目される。昭和10年「歴程」創刊メンバーとなる。のち満州(中国東北部)にわたり,21年5月17日死去。40歳。栃木県出身。早大卒。本名は大野四郎。
格言など】しやべり散らすな 愛を おもひきり胸には水をそそげ(「逸見猶吉詩集」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「逸見猶吉」の意味・わかりやすい解説

逸見猶吉
へんみゆうきち

[生]1907.9.9. 栃木,谷中
[没]1946.5.17. 中国,長春
詩人。本名,大野四郎。 1931年早稲田大学政経学部卒業。草野心平主宰の『学校』に連作『ウルトラマリン』を発表して注目され,次いで草野らと詩誌『歴程』を創刊 (1935) ,その第1号を責任編集した。 39年満州に渡り,新京で敗戦を迎え病没した。草野により『逸見猶吉詩集』 (48) が刊行された。

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367日誕生日大事典 「逸見猶吉」の解説

逸見 猶吉 (へんみ ゆうきち)

生年月日:1907年9月9日
昭和時代の詩人
1946年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の逸見猶吉の言及

【歴程】より

…1935年5月創刊。創刊号の編集兼発行人は逸見猶吉(へんみゆうきち)。歴程社発行。…

※「逸見猶吉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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