日本歴史地名大系 「遍路道」の解説
遍路道
へんろみち
- 高知県:総論
- 遍路道
四国八十八ヵ所の霊場(札所)を結ぶ道で、遍路・
大師の聖跡を巡礼する風習は、初め真言僧の修行として行われた。「今昔物語集」巻三一第一四話に「今ハ昔、仏ノ道ヲ行ケル僧三人伴ナヒテ、四国ノ辺地ト云ハ伊予・讃岐・阿波・土佐ノ海辺ノ廻也、其ノ僧共其ヲ廻ケルニ(下略)」、また「梁塵秘抄」に「われらが修行せし様は 忍辱袈裟をば肩に掛け また笈を負ひ 衣はいつとなくしほたれて 四国の辺地をぞ常に踏む」とあり、四国の辺地を巡歴する修行僧のいたことが知られる。このような海辺を回る辺地修行が遍路の原初的姿とされるが、のち弘法大師信仰と結び付き、貴賤を問わぬ巡礼修行となった。修行僧に混じって多少とも俗人の巡拝が行われるのは中世後期頃からで、愛媛県松山市の四九番
以下、現在の札所に視点をあてて土佐の遍路道をたどることにする。なお八十八ヵ所を阿波・土佐・伊予・讃岐の順に回るのを順打ち、その逆を逆打ちといった。阿波国(一―二三番・六六番の二四ヵ所)は「発心の道場」、土佐国(二四―三九番の一六ヵ所)は「修行の道場」、伊予国(四〇―六五番の二六ヵ所)は「菩提の道場」、讃岐国(六七―八八番の二二ヵ所)は「涅槃の道場」といわれる。
遍路道
へんろみち
- 徳島県:総論
- 遍路道
四国霊場八十八ヵ所を結ぶ道。第一番札所
四国遍路は、古くは「今昔物語集」巻三一(通四国辺地僧、行不知所被打成馬語第十四)に「四国ノ辺地」を回る僧侶の逸話がみえ、その起源を平安時代末期とみることができる。中世の遍路は僧侶たちの厳しい修行の場であったが、中世の弘法大師信仰の展開や西国三十三ヵ所観音霊場の成立による影響を受けて札所と遍路道が確定されていく。江戸時代になり、元禄―正徳年間(一六八八―一七一六)には庶民も参加する札所巡拝が盛んになり、ほぼ現在の遍路道が確定した。なお経路確定のうえで影響を与えたのは、四国霊場を二〇回踏破し、貞享四年(一六八七)の案内記「四国遍礼道指南」を記した真念と考えられている。霊場の回り方には、札所の番号順に回る順打ちと逆に回る逆打ちとがある。遍路を開始する徳島県を「発心の道場」、高知県を「修行の道場」、愛媛県を「菩提の道場」、香川県を「涅槃の道場」とよんでいる。
近世、阿波国内の札所は現鳴門市
遍路道
へんろみち
- 愛媛県:総論
- 遍路道
伊予の遍路道は、高知県
右の経路のうち大洲道をそれて内子から久万町に出て松山に至る間は、伊予国の諸道中でも遍路のたどる最も特色のある道といえる。四三番
内子町の北で分岐して久万町大宝寺に向かう
遍路道
へんろみち
- 香川県:総論
- 遍路道
四国霊場八十八ヵ所札所を結ぶ巡礼道。四国霊場の起源については空海が開創したとか諸説を伝えるが、平安時代末頃には僧侶らの遍路が知られ、庶民による遍路は近世に入ってからであり、とくに貞享四年(一六八七)宥弁真念が「四国遍礼道指南」を著して八八ヵ所とその順番を決めてからいっそう盛んとなった。案内書なども刊行され、全国各地からお遍路さんが来た。なお室町末期から戦国時代には、紀州熊野と同じように中辺路があったことが知られる(讃岐国分寺本堂落書)。
讃岐の遍路道は六六番の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報