遠山景元(読み)とおやまかげもと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「遠山景元」の意味・わかりやすい解説

遠山景元
とおやまかげもと
(1793―1855)

江戸後期の町奉行(まちぶぎょう)。幼名は通之進(みちのしん)、通称は金四郎(きんしろう)。左衛門尉(じょう)に叙す。帰雲と号す。景晋(かげくに)の子。小納戸(こなんど)、小普請(こぶしん)奉行、作事(さくじ)奉行、勘定奉行などを経て1840年(天保11)町奉行(北)となる。天保(てんぽう)の改革のおり諸問屋の株仲間解散に反対し、老中水野忠邦(ただくに)からの命令を受けてもすぐに発令せず、しばらく握りつぶしていたため差控(さしひかえ)を受ける。また三芝居を猿若町(さるわかちょう)(東京都浅草)へ移転することによってその存続を図ったのも、彼の力によるという。町奉行(南)鳥居耀蔵(とりいようぞう)とはとかく対立し43年2月大目付(おおめつけ)に転ず。忠邦の失脚後45年(弘化2)3月ふたたび町奉行(南)の職につく異例の人事となった。当時の町奉行所内では大岡忠相(ただすけ)以来の裁判上手という評判であった。若年のころは身持ちが悪く遊人や中間(ちゅうげん)たちとも交際し、俗説では腕に桜花のいれずみがあったという。「遠山の金さん」として講談、芝居、テレビなどでよく知られている。安政(あんせい)2年2月9日没。墓は東京都本郷丸山の本妙寺

[南 和男]

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朝日日本歴史人物事典 「遠山景元」の解説

遠山景元

没年:安政2.2.29(1855.4.15)
生年:寛政5.8(1793)
江戸後期の幕臣遠山景晋の子。通称金四郎,大隅守,左衛門尉。西ノ丸小納戸頭取格,小普請奉行,作事奉行,勘定奉行などを経て,天保11(1840)年3月江戸北町奉行。翌年8月将軍徳川家慶臨席の公事上聴で特に将軍から褒詞を受け,信任を得る。天保改革のなかで倹約方針を採る老中水野忠邦と諸策で対立し,株仲間解散令の布達を遅延した理由で差控を命じられる。同僚矢部定謙の不正取調を命じられ,同年12月の矢部の罷免後,鳥居忠耀(耀蔵)が着任するが,水野に忠実に厳酷な取り締まりを行う鳥居に対して,遠山はなお抵抗したため,同14年2月大目付に転任,市政から外された。この経緯から「遠山の金さん」として名奉行像が定着することとなった。弘化2(1845)年3月,南町奉行に復帰するが,嘉永5(1852)年3月病気のために辞職し,翌月隠居,帰雲と号した。<参考文献>藤田覚『遠山金四郎の時代』

(針谷武志)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「遠山景元」の解説

遠山景元 とおやま-かげもと

1793-1855 江戸時代後期の武士。
寛政5年8月生まれ。遠山景晋(かげみち)の子。作事奉行,勘定奉行をへて天保(てんぽう)11年江戸北町奉行。老中水野忠邦(ただくに)や南町奉行鳥居耀蔵と対立し大目付に転じるが,ふたりの失脚後南町奉行に就任。桜の入れ墨のある名奉行(遠山の金さん)として講談,テレビ,芝居などでとりあげられた。安政2年2月29日死去。63歳。通称は金四郎,左衛門尉。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の遠山景元の言及

【遠山金四郎】より

…江戸末期の幕臣。幼名は通之進,名は景元(かげもと),号は帰雲。金四郎は通称。左衛門尉景晋(かげくに)の子(遠山家には金四郎を名のる者が少なくないが,景元がもっとも著名)。小納戸より小普請奉行,作事奉行,勘定奉行公事方を経て1840年(天保11)3月北町奉行となる。天保改革の株仲間解散に反対し,内命をうけながらしばらく握りつぶしていたため差控をうけたことがあり,老中水野忠邦や南町奉行の鳥居耀蔵とは親密でなかったようである。…

※「遠山景元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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