いれずみ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「いれずみ」の意味・わかりやすい解説

いれずみ
いれずみ / 入れ墨
刺青
文身

身体変工の一つで、皮膚に傷をつけたり色素を沈着させて絵、文様、印を刻印する風習。色素を用いない方法はとくに瘢痕文身(はんこんぶんしん)といい、皮膚に切り込みを入れたり、あるいは焼き、ときには傷口の治癒が遅れるような物質を擦り込み、くぼんだ、または隆起した傷跡によって模様を描く。狭義のいれずみは、魚の骨、貝殻、植物の刺(とげ)などの自然物、先端を刷毛(はけ)状にとがらせた木片、文様を刻んだ木のスタンプ、いれずみ用にくふうされた特別の針などを使って皮膚に傷をつけ、染料を擦り込む。そのほか針に色素をつけて刺す方法や、色素に浸した糸を針に通し、または色素を塗った針で直接、皮膚を縫って文様をかく技法もある。用いられる色素の原料は煤(すす)が多いが、青、赤、緑などの色素を使うこともある。

 いれずみの目的は装飾としての意味のほかさまざま考えられる。しばしばみられるのは、通過儀礼の一つとして行われることで、少年、少女が成熟した一人前の男、女になるため、成人式のときにいれずみを行う。これは若者に課す試練という意味のほか、いれずみが一人前の社会人としての社会的位置を表していると解釈することもできる。部族や氏族の帰属のしるしとしてのいれずみもある。身分や地位を表す場合もある。そのほか、いれずみが病気治療のためにされるという例も多い。またアイヌのようにいれずみが病魔を避ける呪術(じゅじゅつ)的手段のこともある。さらに、いれずみをしていないと死後に来世へ行けないとか、江戸時代の日本のように懲罰としてのいれずみもある。

[板橋作美]

古代のいれずみ

いれずみの風習は古くからあったが、皮膚は腐敗しやすいため、ミイラ化したもの以外は古い資料は少ない。エジプトでは紀元前2000年ごろのミイラの腕や胸に神の名や神のシンボルのいれずみが残っている。アルタイ地方ボリショイ・ウラガン川右岸のパジリク古墳群の第2号墓から発見された男子のミイラ(前4~前3世紀と推定される)の四肢、胸部、背部には有翼獣、鳥、ヤギ、シカ、魚などの動物文様のいれずみが施されている。アラスカのセント・ローレンス島で発見された1600年前のものと思われる凍結ミイラにもいれずみがみられる。そのほか、古代ギリシア人、ローマ人自身は行わなかったが、ローマ時代には囚人、奴隷にいれずみをした。ヘロドトスの記述によれば、トラキアでは女性が高貴のしるしとしていれずみを入れた。ヨーロッパでもゴール、ブリトン、ゲルマンなどの諸族の間で行われていたが、キリスト教が広まるにつれて消えた。『旧約聖書』「レビ記」19章でいれずみが禁止されているところから、かつてはユダヤ人の間でいれずみの風習があったものと考えられる。中近東地域ではかつてスィンティー・ロマ(いわゆるジプシー)がいれずみ師として活躍していた。中国では南部を除いて昔から行われていない。日本では『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「男子無大小、皆黥面(げいめん)文身」と書かれているように、いれずみの風習は古い。

[板橋作美]

瘢痕文身

瘢痕文身は主として皮膚の色の濃い人種で行われ、アフリカでとくに盛んである。バントゥー系諸族やナイル川上流域では傷跡が盛り上がった浮彫り状のみごとな文様がみられる。たとえばアフリカの民族集団ヌバの女性は胸、腹、背に左右対称の幾何学的な文様を入れる。ヌバでは皮膚をつまんで切り込みを入れ、炭、灰、砂などを擦り込んで傷跡を盛り上げる。オーストラリア先住民の間でも行われ、中央部では火打石やガラスの薄片で皮膚を傷つけ、灰やワシ、タカの綿毛を擦り込み、北部では赤く焼けた棒や炭で皮膚を焼いて傷をつける。焼く方法はこのほか東南アジアのチモール島や北アメリカの先住民セミノール人の間でもみられる。瘢痕文身はほかにタスマニア島、フィジー諸島、ニュー・カレドニア島などのメラネシア、南アメリカ、マレー半島の一部でも行われていた。ソロモン諸島ではオオコウモリの鉤(かぎ)づめを使って男女とも顔に瘢痕を入れた。アンダマン諸島では男女とも子供のときに始まり、間隔を置いて繰り返し瘢痕を入れていく。手術は石英やガラスの薄片を用い、腕、背、胸、腹、脚に施される。

[板橋作美]

オセアニアのいれずみ

色素を皮膚下に沈着させるいれずみは、皮膚の色の薄い人種を中心に広く世界に分布している。いれずみの英語tatooがタヒチ語であるように、ポリネシアでは盛んである。なかでもマルケサス諸島のいれずみは有名で、顔、胸、背、腹、手、足のほか、唇、瞼(まぶた)、歯茎にまでいれずみをする。文様は主として幅の広い直線的なものだが、女性の唇には焼き網状のいれずみをする。ニュージーランドの先住民マオリは、いまでは失われているが、かつては高い地位の男は顔全体に直線、曲線、渦巻線からなるきわめて複雑でみごとないれずみ(モコとよばれる)をしていた。いれずみに使う道具は、古い方法では海鳥の翼の骨、サメの骨、石、硬い木などでつくる大きさ、形のさまざまな小さなのみ状のもので、小さな槌(つち)でたたいて皮膚に傷を入れた。のちには小さな歯状の先端をもつものにかわり、これを、油や犬の脂肪で溶いた炭、樹脂を燃やして粉にしたものを塗って皮膚に打ち込んだ。

 マオリでは男女ともいれずみをしたが、女性の場合はおもに唇とあごのみで、成熟期になると唇にいれずみをしないと恥であった。また女性のあごのいれずみは結婚していることを意味していた。男性は女性より多くいれずみをするが、とくに首長は入念にいれずみをし、部族や家族のしるしである特有の模様を入れた。首長以外の男は首長のいれずみの模様を簡略化して入れるので、顔のいれずみをみれば所属集団がわかり、さらに個人はそれぞれのしるしをたいてい耳の近くにいれずみしていた。いれずみの施術中は厳しいタブーが課され、他の者と話すこと、接触することが禁じられた。食物に触れることも許されず、マオリの首長はいれずみを入れている期間は筒状の道具で食べさせてもらった。

 サモア諸島の男はいれずみをしないと一人前の男として認められなかった。割礼(かつれい)を済ませ、16歳ごろになると、腰から膝(ひざ)にかけて、すね、下腹部、尻(しり)などに小さな熊手状の道具で複雑な幾何学的な文様の傷をつけ、そこに染料を入れた。非常な苦痛を伴うだけでなく、敗血症にかかって死ぬことすらあった。施術中は若い女性がそばで歌をうたって少年を励ます。いれずみが完成すると少年は青年の集団に入ることが許された。女性は思春期になると未婚女性の集団に入り、このときいれずみをすることもあるが、男の場合より簡単なものである。サモアに伝わる神話によると、昔体の一部がつながった双生児の2人の女がいた。さまざまな冒険のすえに、ついていた背中が離れ、2人はフィジー島へ泳いで行き、そこで2人の男のいれずみ師からいれずみの技術を習った。男たちは「いれずみは女に入れ、男にしてはいけない」ということばを双子に教え、故郷へ帰した。双子はサモア島の海岸近くにきたが海底に貝をみつけ、とるために潜った。ふたたびあがってきたとき、それまで口ずさんでいたことばは「いれずみは男に入れ、女にしてはいけない」に変わっていた。そのため、いまではいれずみは男がするのだという。

 メラネシアでもいれずみは盛んだが、一般的にポリネシアのいれずみが直線的な文様が多いのに対して、メラネシアでは曲線的で非対称的なものが多い。ニューギニアでは多くの部族がいれずみをする。フィジー諸島でもかつてはいれずみをした。施術中は隔離され、太陽を見てはいけなかった。アドミラルティ諸島では男は胸と肩に瘢痕文身を入れ、女は目の周りに丸く、また顔面全体、さらに体の前面上部に斜線が交差した文様のいれずみをした。ニュー・カレドニア島でもとくに女性が顔、腕、胸に青や黒のいれずみをした。そのほか、ニュー・ヘブリデス諸島(バヌアツ)、ニュー・アイルランド島やニュー・ブリテン島(ともにパプア・ニューギニア)の一部でも行われていた。ミクロネシアではパラオ諸島ヤップ島ミクロネシア連邦)、マーシャル諸島、ギルバート諸島(キリバス)などで行われていた。

[板橋作美]

アジア、ヨーロッパなどのいれずみ

アジアではとくに東南アジアでいれずみが盛んである。フィリピンのカリンガ人はかつて首狩りの成功をたたえて胸や背にいれずみをした。インドのナガ人では少女は一人前の女になるためにはいれずみをしなければならない。10歳か11歳になるとまず足に、翌年にあご、胸、肩に、3年目にはふくらはぎ、4年目に腕と腹にいれずみを入れる。木片で下絵をかき、その上を植物のとげでつくった道具でたたき、黒の染料を入れる。いれずみの施術は村の近くの森の中で老女によって行われ、このとき男は近寄れない。インドのゴンド人でも女は結婚前にいれずみをする。染料には、油煙と炭と香料の粉をひまし油で溶いたものを火にかけて焼き、残った黒い灰を使う。ビルマのシャン人などの間でもいれずみが盛んで、くふうされたいれずみ用の道具を使い、動物や人間の像、幾何学的文様、渦巻状の模様を入れる。

 北アジアではギリヤーク、コリヤーク、チュクチなどの民族集団で顔や腕にいれずみをする。アイヌでもかつていれずみが成熟した女のしるしとされた。北海道アイヌの場合7、8歳から14、15歳の間に口の周りに、11、12歳から15、16歳の間に前腕部や手背部にいれずみをした。染料には白樺(しらかば)の皮を燃やして鍋(なべ)の底につく煤を使った。老女が少女の皮膚に煤で下絵をかき、かみそりや小刀で切り傷をつけ、煤を擦り込んだ。

 日本の南西諸島でも女性だけが前腕部や手背部にいれずみをした。日本では高度に発達したいれずみ技術があるが、現在では一般にいれずみを入れるのは一部の人々に限られる。

 ヨーロッパではキリスト教との関係でいれずみをする風習はなかったが、軍隊や船員の間でいれずみが流行することがある。アフリカでは瘢痕文身が主だが、エジプト、アルジェリアなどの北アフリカでみられる。南アメリカでも一部にみられ、北アメリカのセーリッシ人、グリーンランドのイヌイットでは縫い入れ式のいれずみをすることがある。

[板橋作美]

日本の民俗としてのいれずみ

日本のいれずみの歴史については不明確な点が多い。縄文時代の土偶の模様から、いれずみの存在を推定する説があり、慎重論もあるが否定することもできない。弥生(やよい)時代には『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の記述があるほか、埴輪(はにわ)にもいれずみと思われる隈取(くまどり)を施したものがある。『古事記』神武(じんむ)天皇東征の条には、大久米命(おおくめのみこと)が目のあたりにいれずみをしていたように記しているし、『日本書紀』履中(りちゅう)、雄略(ゆうりゃく)天皇の条にも記述がある。それらの記載はきわめて簡略で、分布その他も明らかでないが、古代にいれずみのあったことは疑いない。ところが7世紀以後は足利(あしかが)時代まで文献に現れることがない。その間いれずみが消滅したのではなくて、おそらくいれずみの習俗をもった先住の集団のなかに、いれずみの習俗をもたない支配層が広がり、先住者を辺境に押しやったために、文字を解する支配層の記録に現れなかったのであろう。

 近世になると、都市の一部に急速に広まってくる。遊女と客との心中(しんじゅう)立てとしての入れぼくろや、犯罪者が手首に輪のように入れられたいれずみを隠すためや、一般社会からはみだした人々が背中を中心に全身に施すようになった。その図柄は花鳥風月から信仰、役者の顔までさまざまで、絵師が下絵をかき、彫師が針で皮膚に傷をつけて色素を擦り込む。錦絵(にしきえ)の影響を受け芸術性の高いものがある。江戸時代のいれずみは技術と色彩において世界一といわれている。1872年(明治5)に太政官(だじょうかん)布達で禁止されたが、いまも存続する。近年では関東大震災のあと景気のよかった職人たちが競って彫ったという。

 これとは別に、明治の初年まではアイヌと南西諸島にいれずみの習俗があった。鹿児島県大島郡喜界(きかい)島から、沖縄県八重山(やえやま)郡与那国(よなぐに)島に至る島々では、針突(はづき)とよぶのが一般である。女性が両手の甲や手首にした。沖縄本島では、7歳になると中指と薬指の第1節に小豆(あずき)ほどのいれずみを施し、成長にしたがって大きくしていく。結婚のしるし、または成年式のような意味合いがあった。いれずみがないと死後往生ができない、迷わず成仏(じょうぶつ)できるようにいれずみを施すのだという。八重山では、いれずみがないとあの世で竹の根を手で掘らされるという。文様は島ごとに違いがあるが、魔除(まよ)けの意味が強いようである。階級によって、上層ほど細かい図柄を好んだ。特定の施術者のいた島では、謝礼を米で支払うこともあった。奄美(あまみ)大島では針突大工といい、たいてい女性である。いれずみが薄くなると、入れ直すこともあった。

[井之口章次]

江戸時代の刑罰としてのいれずみ

江戸時代の前半期にもすでに行われていたが、幕府がその行わるべき場合および仕方を定めたのは1720年(享保5)のことである。このときに、耳鼻をそぐ科(とが)より一等軽い刑を科すべき者には、腕に幅3分(約1センチメートル)ほどの2筋(すじ)のいれずみをすべき旨を定めた。このいれずみの採用には、中国の明(みん)律の刺事(しじ)の影響があると思われる。公事方御定書(くじかたおさだめがき)では、いれずみは主として盗犯に用いるべきものとされている。牢(ろう)屋敷では腕回し幅3分ずつ2筋にいれずみするものとし、いれずみの跡が治ってから出所すべきものとしている。いれずみの仕方は、墨で腕に筋を2本引き回し、針を10本ほど寄せて巻いたものでその上を突いて彫り、両手で擦り込むものであった。腕に2筋のいれずみをするのは江戸の牢屋敷の仕方であるが、遠国奉行(おんごくぶぎょう)でもみな腕にいれずみした。藩では、腕に彫るものもあるが、額に彫るのが多い。いれずみのある部位やその形によって、どこでいれずみ刑に処せられたかがすぐわかるようになっていた。婦人については古くはいれずみは行われなかったが、御定書には婦人にいれずみしてはならぬという規定はないというので、1789年(寛政1)に初めて女性にもいれずみ刑を科した。幼年者については、将来心底(しんてい)が直ったあと、古傷が顔に残ってはかわいそうというので、行わないたてまえがとられていた。

[石井良助]

除去法

いれずみは色素を人工的に皮内へ刺入させて生じた色素沈着であり、大部分の色素は食細胞内に摂取されて存在する。これを担色細胞melanophageという。熟練者によるいれずみでは、これが真皮浅層の一定の深さに均等に並んでみられるが、素人(しろうと)の場合は真皮の深層まで不規則に多数認められる。完成したものでは炎症性反応はみられない。

 除去法は、担色細胞の存在する深さにより異なる。浅在性の場合は削皮術dermabrasionまたはダーマトームdermatome(採皮刀)を用いて皮膚を削離することにより、軽度の瘢痕を残すだけで除去できる。深在性の場合は単純な皮膚剥離(はくり)では無理で、切除術を併用、または術後に腐食剤などを使用して色素の排出を図るなどのくふうが行われる。症例によっては、ケロイド状の瘢痕を覚悟で深くまで削ることもある。また植皮を行う場合もある。

[水谷ひろみ]

『小原一夫著『南嶋入墨考』(1962・筑摩書房)』『森田一朗著『刺青』(1966・図譜新社)』『吉岡郁夫著『いれずみ(文身)の人類学』(1996・雄山閣出版)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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