県北東部を占める扇状地・丘陵・高原などを含む広大な地域の総称。那須野が原とも記す。しかし、江戸時代までの諸書では那須野・那須野之原(那須野ノ原・那須野の原)の表記が多く、一部が那須ノ原・那須野ヶ原などとなっている。明治初年になると那須野・那須原が多く、一部那須原野・那須ノ原・那須野の原・那須野ヶ原などが用いられた。那須野ヶ原の表記は明治一〇年以降の開拓事業の進展に伴って一般化されたようだが、国土地理院では「那須野原」を採り、同院発行の刊行物やこれに準拠した地図には那須野原と記される。読み方は「なすのはら」「なすのがはら」両様がある。
「吾妻鏡」建久四年(一一九三)三月九日条に「那須野可有御野遊之間」、同月一五日条に「那須野御狩」などとみえ、同年三月末から四月末にかけ源頼朝によって巻狩が催されている。「那須野」は那須地方にある原野あるいは平坦地をさし示したものと考えられる。しかし、那須野ヶ原の範囲は時代・史科によって差があり、必ずしも明確ではない。天明年間(一七八一―八九)古河古松軒の「東遊雑記」には「大田原より三里鍋掛の駅なり、この三里の間、那須野原なり。(中略)慶長・元和のころまでは、那須野原と号する所南北二十余里、東西五里七里ばかりもありて、広びろたる原なりし由、その後おいおい田畑となりて、今は南北十一里、東西広き所四里、または二里一里ばかり、それも所どころに田畑ありて、日を追うて狭くなるなり」とあるが、距離などはにわかに信じがたい。嘉永三年(一八五〇)刊の「下野国誌」には「那須郡太田原の辺より、陸奥の国境までをなべて那須野ノ原と云なり」とある。いずれにしても明確な境界はなく、ときには那須北部地方一帯をさしたものと思われる。
現在一般には広狭二義があり、広義では南は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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