那須野村
なすのむら
[現在地名]西那須野町永田町・千本松・四区町・三区町・二区町・一区町・北二つ室・二つ室・下永田・緑・南町・幸町・あたご町・扇町・朝日町・東町・栄町、大田原市加治屋
明治一八年(一八八五)に成立した村。東は塩谷郡横林村・接骨木村(現那須郡塩原町)、那須郡三島村・南郷屋村・石林村・原町村、大田原宿・荻野目村(現大田原市)、南は親園村・実取村・薄葉村(現同上)、西は下石上村・上石上村(現同上)、塩谷郡下大貫村・上大貫村・高阿津村・下田野村・関谷村(現塩原町)、北は遅野沢村・折戸村(現同上)に接する広い地域。那須野ヶ原西部にあり、水利に乏しい。近世は周辺農村の入会秣場の西原で、特定の村に属していなかった。明治八年官有原野となった。同一三年、栃木県北の有力者である印南丈作・矢板武ら九人が開墾の目的で三千町歩の貸下げを受けた(「那須原野開墾拝借地願」品川弥三文書)。印南・矢板らは県内外の有志を募って近代的株式組織で開墾事業を行うこととし、翌年二月第一回の株主総会を開き社名を那須開墾社と命名、那須開墾社申合規則四七条(西那須野町図書館蔵)を定めた。株主は主として県内の有力者で六七人、ほかに労力で株金に充てる無株金株主として周辺農村の惣代三五人が加わった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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