都宇竹原庄(読み)つうたけはらのしよう

日本歴史地名大系 「都宇竹原庄」の解説

都宇竹原庄
つうたけはらのしよう

安芸国沼田ぬた(のちの豊田郡東部)にあった京都賀茂御祖かもみおや神社(下鴨神社)荘園で、現竹原市の賀茂川流域一帯を占めると考えられる。都宇庄・竹原庄と個別にも記される。現在都宇という地名は残らないが、「延喜式」(兵部省)に山陽道の駅名として都宇がみえ、「和名抄」に沼田郡の郷としても都宇郷が記される。都宇駅は現竹原市新庄しんじよう町の古代山陽道と賀茂川の支流葛子かずらこ川とが交差する辺りにあったと考えられ、都宇郷も新庄町を中心とする地域であったと思われる。

寛治四年(一〇九〇)七月一三日の太政官符(賀茂社古代庄園御厨)に「賀茂御祖社被奉不輸田七百四十五町為御供田、近日依有夢想、被供御膳也」として記される荘園一九ヵ所の一つに「安芸国竹原庄 四十町」がある。平安時代末期には都宇郷も下鴨社領都宇庄となり、竹原庄を本庄、都宇庄を新庄と称した。「芸藩通志」に竹原東野たけはらひがしの村がもと本庄ほんじよう村とよばれたとあり、賀茂川の河口一帯が竹原とよばれたことは、東野から賀茂川の河口にかけての地が竹原庄(本庄)であったためと思われ、また現在の新庄の地名が、古代山陽道に沿って後期古墳の多い横大道よこだいどうを含む地に残ることは、都宇庄(新庄)がこの地であったことを示すものと考えられる。なお康安元年(一三六一)一一月九日付の小早川重景寄進状(「閥閲録」所収礒兼求馬家文書)に「都宇庄浜新堤」とあることや、建武五年(一三三八)二月二四日付の小早川景宗自筆譲状(小早川家文書)にみえる「安芸国都宇庄除西堤田三丁余(以下略)」などから、都宇庄を海岸部の下市しもいち辺りに比定する見解もあるが、一部分が賀茂川の河口付近に飛地として存在したのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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