鄭国渠 (ていこくきょ)
Zhèng guó qú
中国,戦国時代末,秦王政(のちの始皇帝)の初期,韓の水工鄭国が秦国内に作った水路。涇水(けいすい)の瓠口(ここう)(陝西省涇陽県)を渠首にし,渠末は洛水に合流する灌漑水路で長さ300余里(1里は400m余)。この水路が成立し,灌漑と相まって肥沃な泥砂が送りこまれ,それまで耕地に不適当であった塩分を含んだ4万頃(けい)(1頃約4.5ha)の土地が鍾田(しようでん)(1畝当り6.4斛(こく)の収穫のある美田。反当りにして1.4石くらい)となり,秦の富強に大いに役立ったといわれ,《史記》河渠書(かきよしよ)は〈関中は沃野となり凶年なし〉と伝えている。最近の調査によると取水口は水流の方向を配慮し,水量の調節にもくふうを見せた高度の技術をうかがわせるという。
執筆者:米田 賢次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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鄭国渠
ていこくきょ
Zheng-guo-qu; Chêng-kuo-ch`ü
中国の戦国時代末期に韓の人鄭国が造った灌漑用の運河。当時韓は秦の侵略を防ぐため,秦の財力,人力を消耗させようと技術者の鄭国を派遣して,渭 (い) 水の支流の 涇 (けい) 水から洛水まで全長三百余里 (1里は約 413m) の渠 (運河) を造らせようとした。鄭国のこの謀略は途中で露見し投獄されたが,この渠の完成は秦の農業生産力の増強に有利であることがわかり,工事は継続され,完成すると4万頃 (1頃は約 4.5ha) の灌田がなされ,関中一帯は従来の3倍以上の収穫が得られるようになったという。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の鄭国渠の言及
【渭水】より
…この地域には周の鎬京(こうけい),秦の咸陽,唐の長安などが開かれ,早くから渭水水系を利用した灌漑渠道が開削されてきた。前246年,涇河と洛河を結ぶ[鄭国渠]がひかれて以来,前95年(太始2)漢の武帝の時代に涇河と渭河を結ぶ白渠,さらに商顔山を貫き,トンネルと井戸をくみあわせた〈井渠(せいきよ)〉の形をとった竜首渠などがつくられた。唐代以後は開削はすすまず,土砂の堆積のため廃道となったものが多かったが,1935年に涇恵渠が開通,解放後も渭恵渠など多数の渠道が設けられたため,農業用水利灌漑網が完成した。…
【涇水】より
…黄土高原をへるため土砂が多く水はにごり,〈涇渭〉として本流の澄んだ渭河と対比される。秦代に東方の洛河とを結ぶ[鄭国渠](ていこくきよ)が開かれ,また,漢の武帝時代には渭河に直結する白渠も開削されるなど,早くから灌漑に利用されてきた。【駒井 正一】。…
【治水】より
…四川省成都灌県の岷江(みんこう)に築かれ,人工的に山を切り開いた宝瓶口から岷江の河水を成都平原の灌県に導き入れるもので,川の中央に魚嘴(ぎよし)を築いて東側の支渠と西側の岷江本流とに二分するが,飛沙堰を設けて支渠に流入する水量を調節する措置が施され,灌漑と防洪の両面を具備した点に特色がある。前246年に鄭国が設計,建設した鄭国渠(きよ)は,陝西省涇陽県から涇水の水を東に引いて洛水に注ぎ入れる全長200km近い工程で,関中平原を灌漑し,塩漬地の改造をもたらした。また〈井渠法〉は,前漢武帝のときに関中平原の竜首渠で創始された。…
※「鄭国渠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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