野城跡
あしのじようあと
奈良川左岸、旧芦野宿東方の丘陵西側斜面にある中世の山城。近世にも引続き旗本芦野氏の陣屋となっている。桜ヶ城・芦野氏陣屋ともいう。築城者・築城年代については、天正一八年(一五九〇)芦野盛泰によるとする説、天文年間(一五三二―五五)芦野資興によるものとする説などがある。那須七騎に数えられた芦野氏第三の居城で、芦野館から館山城へ、さらに当城へと移り住んだ同氏は交代寄合席旗本として幕末を迎える。
野城跡
くしのじようあと
[現在地名]院内町櫛野
旧道の櫛野橋を渡った地点にあって、西は恵良川の深い断崖を控え、東は平地となる。現在でも堀がL字形に一部残存しており、また宇佐史談会によって「櫛野城趾」と陰刻した石碑が建てられている。櫛野氏代々の居城。「宇佐郡地頭伝記」によれば、大友親秀の六男親重が建長元年(一二四九)豊後国速見郡木付(現杵築市)に封ぜられ、その一三世の孫親実の子息木付親諸の弟茂晴が天文年中(一五三二―五五)に深見郷櫛野村地頭職となり、櫛野弾正忠と称して櫛野城を築き、弘治二年(一五五六)茂晴は大友義鎮に帰服したという。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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