野町(読み)のまち

日本歴史地名大系 「野町」の解説

野町
のまち

[現在地名]金沢市野町一―四丁目・いずみ一丁目・弥生やよい一丁目・千日町せんにちまち

犀川の南、北陸街道沿いの両側町で、元禄九年(一六九六)の書上(「片岡孫作筆録」加越能文庫)によると本町。犀川大橋南詰から南西に延び、泉町に続く。城下の中心部から一―六丁目と区画された。一丁目は大橋より南西助九郎すけくろ町入口まで、二丁目は南西南石坂みなみいつさか町入口はで、三丁目は南西小柳おやなぎ町入口まで、四丁目は南西金戸かなど町入口まで、五丁目は南西六斗溝ろくとのみぞに架かる橋まで、六丁目は南西泉町境までであった(皇国地誌)

町名は、かつて金沢城下が拡大されて泉村の東方に広がる野地、泉野が町地になったとき泉野いずみの町とよばれ、これを略して野町とよんだとされる(稿本金沢市史)。慶長元年(一五九六)の家数は五八〇余戸、一丁目には繁華の中心野町広小路の十字路があった。


野町
のまち

[現在地名]鈴鹿市野町

野村の北方、神戸かんべ宿から稲生いのう村に通ずる稲生道の中間にある。和歌山藩領。地名のごとく原野のなかに作られた集落で、その由来は野村と同じく寛永七年(一六三〇)徳川頼宣鷹狩の際の開墾指令に始まり、正保四年(一六四七)の諸役赦免の定書も同様である。溜池は集落西方浄土じようど池の西側の野町池で、ここは開墾規模も小さいのか、野村の祓川はらいがわ池に比べてはるかに小さい。

寛文一一年(一六七一)南龍院(頼宣)死去に際し、その徳をしのんで南龍神社に祀ったことは野村と同じである。明治二年(一八六九)の家数四五(うち庄屋一、皆無役)、人数二〇六とあり(白子領大指出帳)、耕地は少ないものの家数・人数は野村より多い。野町は瓦屋の多い所で、これで生計を立てる家が多かった。


野町
のまち

[現在地名]山川町尾野おの

立山たちやま村の南西に位置し、薩摩街道に沿って形成された在町。野町分ともいう。元禄国絵図には野町とあり、無高。柳川藩領図では竹井たけのい(現高田町)の内とされている。天保郷帳に村名記載がない。旧高旧領取調帳には野町分として高八九石余とある。幕末から明治初年の反別一二町八反余(郡郷)。年未詳の在町丁数家数覚(伝習館文庫)によれば幕末の町の全長は二八二間、家数九七。なお当地の薩摩街道は天正一五年(一五八七)の島津氏攻めの時、豊臣秀吉の指示によって拡幅されたと伝え、地元では太閤たいこう道とよぶ。柳川藩は天和三年(一六八三)佐野さの村東方の甲塚かぶとづか(甲山・甲田山)に牧場を開設して御牧おまき山とし、伍位軒ごいのきの住民を牧番に充てた(「御牧之覚」伝習館文庫)


野町
あしのまち

[現在地名]那須町芦野

横岡よこおか村の南、八溝やみぞ山塊北部の西麓に位置し、峡間を奈良なら川が南流する。郷帳類では芦野村とも記した。天文年間(一五三二―五五)築城(一説に天正一八年)と伝える芦野城の城下町として町の骨格が形成されたと思われるが、近世、奥州街道の宿場町、また旗本芦野氏の陣屋町として発展した。慶安郷帳では田高二九七石余・畑高二五二石余。近世を通じ芦野領であったと思われるが、元禄郷帳では旗本大田原領とみえる。天明四年(一七八四)二月、前年の飢饉がもとで打毀事件が起きている(渡辺太文書)。文政一〇年(一八二七)には当村を含め近隣三八ヵ村の寄場となるなど、近世を通じ那須郡北域の行政・商業などの一中心地であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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