野庄(読み)かどののしよう

日本歴史地名大系 「野庄」の解説

野庄
かどののしよう

古代氷上郡葛野郷(和名抄)を継承する庄園。現氷上町西部を庄域としたと考えられる。平治元年(一一五九)閏五月日の宝荘厳院領庄園注文案(東寺百合文書。以下断らない限り同文書)に「丹波国葛野牧 朝隆卿 米百石・油一石一斗」とみえる。冷泉朝隆を領家とし、宝荘厳ほうしようごん(現京都市左京区)本家とする庄園。同院は鳥羽上皇の御願寺で米一〇〇石と油一石一斗を収取することになっていた。「葛野牧」と「葛野庄」は混用されるが、「葛野牧」の呼称がみえるのは貞和二年(一三四六)までである。同院領は鳥羽上皇から美福門院を経て代々皇室領として伝領され、嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には大宮院(藤原子)領としてみえる。その後、元徳二年(一三三〇)正月二八日(二一日か)の後醍醐天皇綸旨案によると、後醍醐天皇は同院が衰退したため執務職と寺領を東寺に施入した。正慶元年(一三三二)六月日の臨川寺領目録(天龍寺文書)によれば、当庄の領家職は近衛基嗣・青蓮院宮尊助親王・後嵯峨上皇・大宮院・昭慶門院・世良親王、臨川りんせん(現同市右京区)と伝領されたこと、領家の年貢は米二〇〇石余であったことがわかる。


野庄
かどののしよう

和名抄」に載る上妻かみつま郡葛野郷の系譜を引く安楽寺(太宰府天満宮)領庄園。葛野郷、古代葛野駅の比定地と合せ現筑後市前津まえづ羽犬塚はいぬづか付近に比定される。観応三年(一三五二)書写の安楽寺領注進状に上妻郡「葛野庄」とみえ、安楽寺の根本所領であったが、地頭らによって押領されていたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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