針山新村(読み)はりやましんむら

日本歴史地名大系 「針山新村」の解説

針山新村
はりやましんむら

[現在地名]新湊市本江針山ほんごうはりやまなど

足洗あしあらい潟の西方に位置。牛屋うしやともよばれ、北の練合ねりや村の出村伝承によれば、天正五年(一五七七)能登穴水あなみず(現石川県穴水町)上杉謙信により落城し、このとき家臣五十嵐外典の家来長助が来住して開拓したのが始まりとされる。長助の子孫は大工を家業とし、のち針山大工と称された。幕末には富山藩の主要な御用大工となる。射水いみず郡に属したが、寛永一六年(一六三九)富山藩領となり、婦負ねい郡に属することとなった。同一〇年の牛ヶ首用水在々水割帳(牛ヶ首用水土地改良区蔵)で縦三寸六分五厘・横四寸の取入樋を利用する権利を有した「本江針山村」は、当村をさすか。正保郷帳では婦負郡に属し、高二七石余、田方一町余・畑方八反余、新田高四七石余。


針山新村
はりやましんむら

[現在地名]新湊市本江針山新ほんごうはりやましんなど

婦負ねい郡針山新村の東、足洗あしあらい潟の南辺に位置。集落北部を浜往来が通る。射水いみず郡に属する。伝承によれば、寛永(一六二四―四四)頃京都から来往した五人の浪士が開いたのが始まりとされる。赤井家の大羅漢樹は浪士の一人六左衛門が植えた木という。正保郷帳に村名がみえ、新田高一二一石余、田方七町二反余・畑方九反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二一六石、免二ツ七歩(三箇国高物成帳)。寛保二年(一七四二)の草高は二五五石(定免三ツ一歩)・八二石余(定免二ツ七歩)の二筆で、百姓一六・頭振六(「高免等書上帳」折橋家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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