鈴谷村(読み)すずやむら

日本歴史地名大系 「鈴谷村」の解説

鈴谷村
すずやむら

[現在地名]与野市鈴谷一―九丁目

大戸おおと村の北西に位置し、東は高沼こうぬま排水路を挟んで中里なかざと村。東方を高沼代用水(西縁)が南流する。鈴ヶ谷村とも書き、「すずがや」ともよんだ。古くは鈴幡すずはた村とも称したという(風土記稿)。栃木県日光市輪王りんのう寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の大般若経巻一七八の奥書に「足立郡与野郷鈴谷」とみえ、中世には与野郷に含まれた。与野領に属した(風土記稿)。田園簿では田一一二石余・畑一一六石余で、旗本牧野領(一二二石余)と同保々領(一〇七石余)の相給とあるが、牧野氏は牧氏の誤り。慶安二年(一六四九)には村内の妙行みようぎよう寺に徳川家光より朱印一〇石が宛行われている(「徳川家光朱印状」同寺蔵)

牧氏知行分のものと思われる寛文一一年(一六七一)の高反別書上(稲垣家文書)によると田六〇石余(反別六町二反余)・畑六二石余(反別一二町五反余)、うち田三一石(反別三町三反余)は「高沼みずいかり場」とある。貞享三年(一六八六)の牧氏の年貢割付状(同文書)でも同高で、うち二九石余が「高沼水いかり引捨テ」とされ、残りの九二石余の免二ツ九分。元禄元年(一六八八)牧氏は無嗣絶家となり、幕府領に編入された(同年「年貢割付状」同文書、「寛政重修諸家譜」)。同年の割付状でも高・反別に変化はないが、ほかに新畑(見取畑)七反余があり、「高沼水腐」として田二九石余が除かれている。この状態は以後も変わらなかった。同八年の年貢割付状(同文書)では畑一石弱(反別二反余)が高入れされているが、田方の七〇パーセント以上にあたる四町余が「当高沼水いかり不作」、七反余が「検見引」として除かれ、取米六石余・取永一五貫文余であった。

元禄期には保々領分を上組(惣兵衛組)、幕府領分を下組(新右衛門組)と称するようになっている。享保一九年(一七三四)加筆のある元禄一一年の検地帳(大室家文書)によると、保々領は田四八石余(反別五町余)・畑五四石余(反別一〇町五反余)、名請人数四五、うち四人は与野町、一人は道場どうじよう(現浦和市)、一人は町谷まちや(現同上)からの入作、屋敷数一五。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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