日本歴史地名大系 「鈴谷村」の解説
鈴谷村
すずやむら
- 埼玉県:与野市
- 鈴谷村
牧氏知行分のものと思われる寛文一一年(一六七一)の高反別書上(稲垣家文書)によると田六〇石余(反別六町二反余)・畑六二石余(反別一二町五反余)、うち田三一石余(反別三町三反余)は「高沼みずいかり場」とある。貞享三年(一六八六)の牧氏の年貢割付状(同文書)でも同高で、うち二九石余が「高沼水いかり引捨テ」とされ、残りの九二石余の免二ツ九分。元禄元年(一六八八)牧氏は無嗣絶家となり、幕府領に編入された(同年「年貢割付状」同文書、「寛政重修諸家譜」)。同年の割付状でも高・反別に変化はないが、ほかに新畑(見取畑)七反余があり、「高沼水腐」として田二九石余が除かれている。この状態は以後も変わらなかった。同八年の年貢割付状(同文書)では畑一石弱(反別二反余)が高入れされているが、田方の七〇パーセント以上にあたる四町余が「当高沼水いかり不作」、七反余が「検見引」として除かれ、取米六石余・取永一五貫文余であった。
元禄期には保々領分を上組(惣兵衛組)、幕府領分を下組(新右衛門組)と称するようになっている。享保一九年(一七三四)の加筆のある元禄一一年の検地帳(大室家文書)によると、保々領は田四八石余(反別五町余)・畑五四石余(反別一〇町五反余)、名請人数四五、うち四人は与野町、一人は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報