銅脈先生(読み)ドウミャクセンセイ

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

銅脈先生 どうみゃくせんせい

1752-1801 江戸時代中期-後期の狂詩作者。
宝暦2年生まれ。京都聖護院(しょうごいん)宮家の畠中正冬の養子。諷刺のきいた狂詩で江戸の大田南畝(なんぽ)とならび称された。儒者那波魯堂(なわ-ろどう)の門人でもある。享和元年6月2日死去。50歳。讃岐(さぬき)(香川県)出身。本姓は都築。名は正盈(まさみつ)。字(あざな)は子允。通称は政五郎,頼母(たのも)。別号に観斎,寛斎,片屈(へんくつ)道人。狂詩集に「太平楽府(たいへいがふ)」など。

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大辞林 第三版の解説

どうみゃくせんせい【銅脈先生】

1752~1801) 江戸後期の狂詩作者。京都の人。本名、畠中正盈。号は観斎(寛斎)。著「太平楽府がふ」「勢多唐巴詩せたのからはし」「太平遺響」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

銅脈先生
どうみゃくせんせい
(1752―1801)

江戸後期の狂詩作者。本名は畠中正盈(まさみつ)。ほかに片屈道人、太平館主人などの戯号がある。京都の人。聖護院宮(しょうごいんのみや)に仕えた公家(くげ)侍で、漢学を那波魯堂(なわろどう)に学んで観斎と号した。処女狂詩集『太平楽府(たいへいがふ)』(1769刊)により、江戸の大田南畝(なんぽ)(蜀山人(しょくさんじん))と並ぶ狂詩の二大家の名声を獲得、以後『勢多唐巴詩(せたのからはし)』『太平遺響』『太平遺響二編』などを著した。作風は、沈滞した社会に対する憤りと苦悩に発する痛烈な風刺を旨とし、狂詩のかたわら手を染めた滑稽本(こっけいぼん)『太平楽婢女行(たいへいらくひじょこう)国字解』『風俗三石士(さんごくし)』などにもその特色が表れている。[日野龍夫]
『『中村幸彦著述集6』(1982・中央公論社)』

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