江戸中期から盛んになり,明治中期まで行われた滑稽文学の一種。外見は漢詩そのままであるが,正規の漢詩には取り上げられることのない卑俗滑稽な素材を詠じ,表現も漢字の本来の意味を無視した当て字や,強引なこじつけの訓読をわざと用いる。固苦しい漢文口調という形式と,卑俗滑稽な内容との矛盾が生み出すおかしさをねらった文学である。滑稽なことを詠ずる漢詩は平安時代からあり,漢詩の興隆した江戸中期になると漢詩人の手すさびとしてかなり作られるようになった。しかし,それらはほとんど形式面では正規の漢詩の枠内にあるものであり,またその場限りの遊びとして作られ,出版して世に問うというほどの意欲のこめられたものではなかった。1767年(明和4)江戸の大田南畝が《寝惚(ねぼけ)先生文集》を刊行して,狂詩ははじめて手すさびの域を脱し,文学として確立された。この書は素材においても表現技法においてもそれまでの微温的な滑稽詩をはるかに超える徹底した滑稽味を発揮しており,のびやかな明るさをかもし出してすぐれた滑稽文学となっている。本書の好評に刺激されて,以後狂詩集が続々と刊行されるようになった。2年後の69年,京都の銅脈(どうみやく)が《太平楽府(たいへいがふ)》を出す。銅脈は才気においては南畝に及ばないが,知識人らしい自虐と批判精神によって滑稽の中におのずと人生の哀歓を盛りこみ,作品の文学性においては南畝をしのぐ。また南畝が狂歌に力を注いでやがて狂詩から離れていったのに対し,終生狂詩を作り続け,その点でも狂詩史上の第一人者と称せられるべき人物である。南畝,銅脈以後の作者としては,京都の中島棕隠(そういん)と江戸の植木玉厓(ぎよくがい)が名高い。明治に入っても10年代までは,狂詩の専門雑誌が刊行され,成島柳北(なるしまりゆうほく),真木痴囊(まきちのう)らのすぐれた作者が輩出し,江戸期に劣らない隆盛を続けたが,やがて漢文学全般の衰亡と運命を共にした。
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執筆者:日野 竜夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期から明治にかけて行われた滑稽(こっけい)文学。漢詩の様式で俗語俗訓を用い、人間や社会の卑俗な面をおかしく詠じるもの。古くから行われていたが、宝暦(ほうれき)(1751~64)ごろになると狂詩集も出て文芸の一様式と認められた。1767年(明和4)江戸で寝惚(ねぼけ)(大田南畝(なんぽ))の『寝惚先生文集』が出、2年後に京都で銅脈(畠中観斎(はたなかかんさい))の『太平楽府(たいへいがふ)』が出、ともに10代ということで世評高く、天明(てんめい)・寛政(かんせい)期(1781~1801)まで東西の両大家として活動した。前者には才気溌剌(はつらつ)の『通詩選』『檀那山人芸舎集(だんなさんじんげいしゃしゅう)』などがあり、後者は風刺を特色として『吹寄蒙求(もうぎゅう)』『太平遺響』などがあって、狂詩の流行をおこした。文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~30)には京都の安穴(あんけつ)先生(中島棕隠(そういん))の『太平新曲』が周囲に同好者を集めて二曲、三曲と重ね、江戸では天保(てんぽう)年中(1830~44)に方外道人(ほうがいどうじん)(木下梅庵(ばいあん))の『江戸名物詩』がよく知られ、半可山人(植木玉厓(ぎょくがい))の『半可山人詩鈔(しょう)』は平仄(ひょうそく)や押韻も正しく、狂詩の第一人者と評された。そして幕末から明治にかけては成島柳北(なるしまりゅうほく)を中心になお流行が続いた。
実例として、半可山人の「顔見世呈三升先生」を引く。「柿色素袍花道長、舞台鎮返暫之場、請看荒事氏神様、日本市川団十郎」。
[浜田義一郎]
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…戯文,もじり詩文,狂詩などの訳語をあてる。語源はギリシア語parōidiaで,para(擬似)+ōidē(歌)を意味する。…
※「狂詩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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