長与村(読み)ながよむら

日本歴史地名大系 「長与村」の解説

長与村
ながよむら

[現在地名]長与町岡郷おかごう斉藤郷さいとうごう嬉里郷うれりごう丸田郷まるたごう吉無田郷よしむたごう三根郷みねごう平木場郷ひらこばごう本川内郷ほんがわちごう

現長与町域の南西部を除く地域を村域とする。史料上は長井・永江などとも記される。多良見たらみ道が通り、地内に一里山が置かれていた(慶安二年肥前国道法帳)中世から長与などとみえ、鎌倉期から長与氏の活動が知られる。江戸時代は大村領の向地むかえちに属する。南西にある幸田こうだ(高田村)は当村から分立した村で、当村内の扱いとする場合がある。慶長一〇年(一六〇五)の大村領内高目録に長与村とみえ、高九七九石余で、田七一町二反余・畠二〇町、物成五三八石余。同一七年の総検地では高一千二二九石余となり(同一八年彼杵郡内検高目録)、朱印高も同高とされた(元和三年「大村純頼領知目録」大村家記)。慶長国絵図に長与とみえ、高九七九石余。慶長高帳では蔵入地のほか、知行高三一六石余の大村善次郎ら庶家一門二人や、大村給人一人・小姓衆九人・西方衆六人の知行地があったが、同一二年の御一門払により大村氏は知行高を半減されている(慶長一七年諸士高帳など)正保国絵図に長与村として高一千二二九石余。正保郷帳(大村見聞集)では幸田村と合せて高一千六九六石余で、うち長与村は田一千一〇四石余・畠一二四石余。寛文四年(一六六四)の大村純長領知目録(寛文朱印留)でも長与村とある。嬉里郷深町に大村藩の横目役所が置かれ、文政六年(一八二三)船津番所の兼帯となったため同番所に移転、天保二年(一八三一)長福ちようふく寺に移された(大村郷村記)。天保八年の国郡全図並大名武鑑、嘉永年間(一八四八―五四)の日本道中図に長井と記される。

元和三年(一六一七)四月長与奉行は大村で布教していたフランシスコ会のペドロ・アスンプシオン神父を肥前佐賀藩諫早領喜々津ききつ(現多良見町)で捕らえ、五月に処刑したが、これに対してドミニコ会のアロンソ・デ・ナバレテ神父と、アウグスチノ会のフェルナンド・デ・アラヤ神父は長与の波止で説教を行い、大村家に書簡を送ったところ、大村藩役人に捕縛されて六月に処刑された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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