長井時広(読み)ながい・ときひろ

朝日日本歴史人物事典 「長井時広」の解説

長井時広

没年仁治2.5.28(1241.7.8)
生年:生年不詳
鎌倉中期の御家人大江広元次男。武蔵国長井荘(埼玉県)を所領とし,長井氏の祖となる。当初朝廷に仕え,建保6(1218)年蔵人に補任される。同年鎌倉幕府将軍源実朝が右大将に任ぜられると,前駆を勤めるため鎌倉に下る。帰京しようとして実朝に制止され,北条義時の口添えを得てようやく上洛。この年叙爵。翌年実朝が右大臣に任命されると再び鎌倉に下向して鶴岡八幡宮拝賀の前駆となる。しかし実朝の暗殺に遭遇し出家承久の乱(1221)で兄親広が京方に加わり没落したため,広元の嫡流となる。乱後も京都に留まっていたとみられ,備後守護となる。

(佐々木文昭)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長井時広」の解説

長井時広 ながい-ときひろ

?-1241 鎌倉時代の幕府官僚。
大江広元の次男。長井氏の祖。はじめ蔵人(くろうど)として朝廷につかえる。建保(けんぽ)6年関東にいき3代将軍源実朝の信任をえて御家人となる。評定衆,備後(びんご)守護をつとめる。7年実朝が暗殺され出家した。仁治(にんじ)2年5月28日死去。通称太郎

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の長井時広の言及

【長井氏】より

…大江広元の第2子時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人。時広は1218年(建保6)ころ鎌倉に下り,幕府に仕えて長井を称した。時広の長子泰秀の一流は,執権北条氏の信任を得,泰秀,宗秀,貞広,貞秀が関東評定衆に補任されている。第2子泰重の一流も泰重,頼重,貞重が六波羅評定衆に補任され,また備前,備後の守護職に補されている。かくして長井氏は関東譜代の重臣と称される勢力者となり,東大寺領美濃国茜部(あかなべ)荘地頭職をはじめとして多くの所領を有した。…

※「長井時広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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