リーグニッツの戦い(読み)リーグニッツノタタカイ

デジタル大辞泉 「リーグニッツの戦い」の意味・読み・例文・類語

リーグニッツ‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【リーグニッツの戦い】

1241年、ポーランド南部のリーグニッツLiegnitz郊外のワールシュタットで、ドイツ・ポーランド連合軍と、バトゥ率いるモンゴル軍との間で行われた戦い。モンゴル軍が大勝。ワールシュタットの戦い。

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精選版 日本国語大辞典 「リーグニッツの戦い」の意味・読み・例文・類語

リーグニッツ‐の‐たたかい‥たたかひ【リーグニッツの戦】

  1. ( リーグニッツはLiegnitz )
  2. [ 一 ]ワールシュタットのたたかい(━戦)
  3. [ 二 ] 七年戦争中の戦闘一つ。一七六〇年、プロイセン王フリードリヒ二世(大王)がオーストリア軍を撃破した戦い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「リーグニッツの戦い」の意味・わかりやすい解説

リーグニッツの戦い
りーぐにっつのたたかい

1241年に東ヨーロッパに侵入したモンゴル軍が、当時ポーランドに属していたシュレージエン州のリーグニッツLiegnitz(原語はレグニーツァ)の南東10キロメートルの地にあるワールシュタットWahlstattにおいて、これを迎え撃ったヨーロッパ軍を破った戦闘。ワールシュタットの戦いともいう。バトゥ指揮下の将軍バイダル(ペタともいう)は、1240年ごろからポーランドに侵入したので、シュレージエン公ハインリヒは、ドイツ軍、ポーランド軍その他からなる3万の軍隊を率いてワールシュタットで迎撃した。戦闘は1241年4月9日に行われたが、ヨーロッパ連合軍は大敗を喫し、ハインリヒは戦死した。当時のヨーロッパ史料によると、モンゴル軍は、戦場で倒れた敵軍の数を計算するために、死体ごとに一つの耳を切り取ったが、大きな袋9個にいっぱいになったという。この敗戦は当時のヨーロッパ、とくにローマ教皇庁に多大の衝撃を与え、モンゴルに対する十字軍を唱えることになった。

[佐口 透]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リーグニッツの戦い」の意味・わかりやすい解説

リーグニッツの戦い
リーグニッツのたたかい
Battles of Liegnitz

下シュレジエンのリーグニッツにおける戦い。 (1) ワールシュタットの戦いとも呼ばれる。 1241年4月9日,バトゥ (抜都)の率いるモンゴル軍の一隊がリーグニッツ近郊のワールシュタットにシュレジエン公ハインリヒの率いるポーランド=ドイツ連合軍を破り,ハインリヒを戦死させた。しかしヨーロッパ軍の激しい抵抗を受けたモンゴル軍は西進をあきらめて南下し,オゴデイの死後モンゴルへ戻った。 (2) 七年戦争末期の 1760年8月,フリードリヒ2世 (大王)の率いるプロシア軍がリーグニッツにエルンスト・ギデオン・フォンラウドンの率いるオーストリア軍を破った。この会戦は七年戦争のゆくえを決定づけるものとなった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「リーグニッツの戦い」の解説

リーグニッツの戦い(リーグニッツのたたかい)
Liegnitz

ワールシュタットの戦いともいう。1241年バトゥの率いるモンゴル軍とシュレージエンハインリヒ2世のドイツ‐ポーランド連合軍との戦い。ハインリヒは敗れて戦死。

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旺文社世界史事典 三訂版 「リーグニッツの戦い」の解説

リーグニッツの戦い
リーグニッツのたたかい

ワールシュタットの戦い

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