長岡荘(読み)ながおかのしょう

百科事典マイペディア 「長岡荘」の意味・わかりやすい解説

長岡荘【ながおかのしょう】

尾張国中島郡にあった摂関家領の荘園。現岐阜県羽島市南部から海津郡平田町・海津町(2町とも現・海津市),愛知県中島郡祖父江(そぶえ)町(現・稲沢市)にかけての一帯に比定される。当時の墨俣(すのまた)川(現長良川)を挟んで河東河西に大別され,河東には西方・大藪・東方・石田の各郷,河西には秋江・堺方の郷があった。鳥羽天皇皇后高陽院泰子(藤原忠実娘)領で,藤原忠通・基実を経て近衛家領として伝領された。荘内は東西各々に別の知行主に与えられていた。1094年の国衙との相論により〈東限河東岸 西限為社 南限大和田堺 北限大榑荘堺〉と四至が確定している。地頭は1212年三河国住人長瀬次郎が任じられ,承久の乱以降佐々木信綱に替わった。下司職・田所職は長岡荘河東石田郷司職を持つ高橋氏が相伝した。鎌倉時代には西隣の近衛家領堀尾(ほりお)荘との間で,荘境や地頭の押妨などをめぐり相論が繰り返された。南北朝期以降は近衛家領を離れたらしく,1348年には地頭職北畠親房から河内国観心寺に寄進されている。また荘内にあった北野社,真福寺(現愛知県名古屋市中区宝生院)には,領家預所・地頭らからしばしば荘内の田畠が寄進された。

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改訂新版 世界大百科事典 「長岡荘」の意味・わかりやすい解説

長岡荘 (ながおかのしょう)

尾張国中島郡(現,岐阜県羽島市南部,海津市東部あたり)の荘園。河東4郷,河西6郷よりなる。1094年(嘉保1)国衙との相論の際に四至が確定。藤原頼通-息女寛子-忠実-息女泰子-忠通-基実を経て近衛家領となり,鎌倉時代を通じて近衛家が所務進止権を有していた。地頭職には1212年(建暦2)三河国住人長瀬次郎が補任されたが,承久の乱後宇治川の戦先陣の功により佐々木信綱にかえられた。以後,宮,佐々木,島津などとかわり,1348年(正平3・貞和4)には河内国観心寺が南朝により補任された。下司職,田所職,石田郷司職は高橋氏からのち毛利氏に伝えられた。1206年(建永1)から1322年(元亨2)にかけて,当荘と西で接していた近衛家北政所領の堀尾荘としばしば相論が行われた。13世紀中ごろから15世紀初めにかけて,領家・地頭等により当荘内大須(おおす)北野社と真福寺に対して,荘内の田畠が多く寄進された。終末所見は1456年(康正2)。
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