長峯村(読み)ながみねむら

日本歴史地名大系 「長峯村」の解説

長峯村
ながみねむら

[現在地名]若葉区大宮町おおみやちよう北大宮台きたおおみやだい・大宮台一―七丁目

坂月さかづき村の南方にある。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に清楚勝首座領分として長峯とみえ、一丁五反の田があった。また円城寺右衛門五郎分として長峯郷、原越前入道分として長峯とも記される。「千学集抜粋」に「ほしくきなか峯宮山にてきる」とみえ、天文一六年(一五四七)千葉妙見宮(現中央区千葉神社)再建の木材を調達している。これより先、治承四年(一一八〇)源頼朝のもとに千葉常胤らが赴いている間、長峰胤行らが千葉城を守っていたという所伝がある(千葉実録)。地内の城の腰じようのこしなどの一帯遺構をもつ城山城跡は城の腰城跡または長峰砦ともよばれ、東西三〇〇メートル・南北二〇〇メートルの規模で、八郭から構成される。主郭のI郭は台形状で腰曲輪・空堀を施している。北東にII郭、南にIII郭・VIII郭が続く。中世の遺物は一四―一六世紀のもので、戦国期後半の城としては支城の機能を有したか。


長峯村
ながみねむら

[現在地名]榛原町大字長峯

福知ふくち村東北方、丘陵傾斜地に立地。中世長沢ながさわ庄に属する。元和郷帳には「長嶺村」と書く。慶長郷帳の村高三六七・七四四石。万治二年(一六五九)以降、松山藩領から旗本織田長政領となる。

村域内の新義真言宗観音寺(廃寺)の本尊十一面観音立像の厨子には「観音寺 御頭支造進番匠大工長谷寺住人藤原俊宗 時之別当僧覚実大徳同堂聖覚秀法印 大施主僧盛算同瑠理女藤原国安大工俊宗 当庄結衆(中略)右為後代亀鏡注進如件 延文二年二月廿一日」の墨書があり、貞享四年(一六八七)に修復している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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