寒川村
さんがむら
[現在地名]中央区寒川町・富士見一―二丁目・末広一―二丁目・新田町・新町・新宿一―二丁目・長洲一―二丁目・葛城一丁目・登戸二丁目・弁天町・本千葉町・神明町・港町・千葉港・問屋町・出洲港、稲毛区弥生町・緑町一―二丁目・轟町四丁目
千葉町の西方、江戸湾に臨む湊町。都川河口部に河岸が設けられ、安房・上総と結ぶ房総往還や東金道・土気往還が通る交通の要所であった。元禄郷帳に「サンガワ」の訓を付す。三川とも記され、中世には結城と称されていたとされる。「成田参詣記」に天正(一五七三―九二)以前は結城とよばれた里とあり、「房総三州漫録」には源頼朝が寒いといったので寒河の呼称があるとし、大河の新川に架かる大橋(マツヤ橋・キミイ橋とも)を境に向う寒河・本寒河に分れていたという。また当時塩浜も開かれていたとあるが、佐倉藩直営であった。この橋の袂に佐倉藩の米蔵が設けられ、河岸より江戸へ回漕した。
寒川村
さむかわむら
[現在地名]小山市寒川
巴波川下流左岸に位置し、東端を与良川が南西流する。北は中里村。さんかわ・さんがわとも発音される。観応元年(一三五〇)から永徳二年(一三八二)の間のものと思われる某所領注文案(小山文書)に「寒川御厨号小山庄重代居城也」とある。年月日未詳の下野国寒川郷等譲状(金沢文庫古文書)に「さんかはのかう」「しもさんかはのかう」とみえる。年未詳八月三日の足利晴氏書状(小山文書)によれば晴氏は「寒川之郷」など三郷を小山高朝に宛行うと約束している。
寒川村
そうがわむら
[現在地名]美山村寒川
現美山村の南部に広がる山間の大村。西は串本村。「続風土記」は「寒川は十河の転語にして幽谷の中に渓流多きより起れるなるへし、十は其大数をいふなり」と記す。
慶長検地高目録には「上寒川村」とみえ、村高三四八石余、小物成六・三二一石。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」によれば田畑三六町七反余、家数一三七で内訳は本役六一、半役三一、無役三五、庄屋・ありき各二、年寄六、人数五三〇、牛三〇、鉄砲三六、御蔵二。
寒川村
さむかわむら
[現在地名]秋田市下北手寒川
柳館村より一八町北東、北は秋田郡目長崎村と境する山間の集落。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「さふ川村」とある。慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)の豊島庄の内に寒川村とある。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二二九石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」は「寒川村 二十四軒。
寒川村
かんがわむら
[現在地名]山北町寒川
蒲萄川の河口左岸にあり、西は日本海に面する。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分かん河村 上」とみえ、「本□合

石弐斗三升 縄□□合百□石□斗六升 家合四拾□」「板貝村ヨリ□里」とある。
寒川村
さむかわむら
[現在地名]水俣市久木野
西に久木野村、南に古里村、東に寺床村、北方は大関山(九〇一・九メートル)山系を境に湯浦手永の石間伏村(現葦北郡芦北町)があり、久木野川に北東から流れ込む寒川川上流部の村。寛永一六年(一六三九)の葦北郡地侍御知行割帳(徳富文書)に「久木野村内寒川村」とみえ、六名の地侍が記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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