長崎路・長崎街道
ながさきじ・ながさきかいどう
江戸時代の八脇街道の一つ。長崎市中より豊前小倉(現福岡県北九州市小倉北区など)までの五七里の路程は北部九州の動脈であるばかりでなく、大坂・京都・江戸に通じる幹道であり、長崎奉行・幕府上使・諸大名やオランダ商館長、また商人や文人墨客・蘭学者など、交通面での日本の歴史の重要な舞台であった。
〔おもな路程と景観〕
肥前佐賀藩領内での街道筋はすでに戦国期の龍造寺氏が領内で整備してきた幹路を継承させた面があり、慶長九年(一六〇四)に伝馬が置かれ、将軍家の長崎御銀の継立のため馬奉行を付け、休泊の宿での火の用心を喚起するなど(「鍋島勝茂書状」坊所鍋島家文書)、幕府御用の重要な路となっていた。その宿駅制度は寛永年間(一六二四―四四)におよそ確立していたとされる(「鍋島勝茂書状」多久家文書)。慶安四年(一六五一)頃の日本国之図(京都大学付属図書館蔵)では長崎と諫早を結ぶ朱線が記され、諫早からは大村方面と多良(現佐賀県太良町)方面の二筋の道が海岸部沿いに分岐し、大村側の道は彼杵宿(現東彼杵町)の辺りで再び分岐して一方は肥前伊万里方面へ、他方は日野浦(現田平町)方面に通じている。
起点は豊前大里(現北九州市門司区)とも小倉ともされるが、小倉から筑前黒崎宿(現同市八幡西区)以下筑前六宿を経て、対馬藩領の肥前田代宿(現佐賀県鳥栖市)を過ぎ、佐賀藩領の轟木(現同上)、神崎(現同県神埼町)、佐賀、牛津(現同県牛津町)、小田(現同県江北町)、多良、湯江(現高来町)、諫早、矢上(現長崎市)を通過、幕府領の日見村(現同上)を経て長崎市中に至る。この路程は慶安二年当時のもので(肥前国道法帳)、時代により複数の路程が開かれ、また海路を組合せて利用されていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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