改訂新版 世界大百科事典 「長崎警衛」の意味・わかりやすい解説
長崎警衛 (ながさきけいえい)
江戸時代に長崎の警備のため近隣諸藩に課された幕府軍役。一般には1641-1864年(寛永18-元治1)に長崎港口の西泊,戸町の沖両番所を1年交代で受け持った福岡藩,佐賀藩の警備をいう。長崎奉行はおおむね2000~3000石以下の旗本で,家臣団を含め外事案件に対処できる軍事力は持たなかったので,1614年(慶長19)の市内の教会破壊に際しては肥前5藩の兵員を徴し,その後も停泊中の南蛮船の警備やキリシタンなど外事犯の拘禁,島原の乱時の市中警固は隣接の大村藩が担当した。
鎖国によって,唐・蘭船をはじめとする日本各地への漂着船の回航など,日本内地のすべての対外交渉は長崎に集中し,かつ39年(寛永16)貿易再開願いのマカオ使節団50余名を処刑したため,これへの武力報復を警戒した幕府は,翌年福岡藩に約1000人の駐留を命じ,石火矢等を貸与した。翌年これを佐賀藩にかえ,以後両藩が交互に担当したが,奉行所への早船提供は熊本・島原・天草の3藩(のち熊本藩のみ),これらの支援と水路警備は大村,島原,平戸,五島の諸藩があたり,異国船の帰帆終了まで関係藩主の参府は延ばされた(在府期間短縮)。47年(正保4)ポルトガル使節船が渡来し九州,四国の諸藩兵が動員され,これを契機に港の内外に7台場が常設された。その後南蛮船,キリシタンの脅威が薄れるとともに形骸化したが,1808年(文化5)イギリス船が長崎港に侵入したフェートン号事件を契機に再認識され,新台場の構築,兵器の更新,市民の軍事教練など,外圧への対応がみられた。
執筆者:中村 質
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報