開田庄(読み)かいたのしよう

日本歴史地名大系 「開田庄」の解説

開田庄
かいたのしよう

中世までは瀬野せの川の河口であった奥海田おくかいた一帯を荘域とし、海田庄とも記す。北は世能荒山せのあらやま(現広島市安芸区)、南は安摩あま(現安芸郡)に接していた。安元二年(一一七六)二月日付八条院所領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)の「庁分御庄」のなかに初めてその名がみえ、鳥羽院領として成立したことがわかる。

元暦二年(一一八五)七月日付の相模国前取社并安芸国開田庄注文(東京国立博物館所蔵高山寺文書)によれば、「安芸国開田庄事 以庄解、先日令付進伯耆前司畢、子細見其状、平氏云源氏云乱入令損亡土民、不知其度数之間、庄民悉以逃散、所残一両人許也、仍不及耕作田畠、況入杣哉、漸々招居庄民、追可勤例進役也」とみえ、源平合戦に際して、源平双方の軍勢が度々荘内に乱入し、荘民が逃散している。


開田庄
かいでのしよう

現上開田・下開田付近に比定される比叡山実相じつそう院領庄園。平安時代に知内ちない川沿いの牧野まきの付近から下流の地域が新しく開墾されて名付けられたと考えられる。天元元年(九七八)二月二日の某寺資財帳(金比羅文書)に「開田庄十五町余預道嶋」とみえ、東大寺の朝南の建立した京都の某寺領であった。建長五年(一二五三)に焼失した比叡山実相院造営のため、同八年四月に当庄などが造営料所とされており、同院領であった(天台座主記)。実相院は康平五年(一〇六二)の建立で、薬師如来如意輪文殊を安置していた(山門堂舎記)。上開田の称念しようねん寺にある薬師如来像は、延久六年(一〇七四)八月二五日の銘をもち、実相院建立当初から薬師信仰を通して当庄と結び付きがあった可能性がある(マキノ町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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