日本の城がわかる事典 「騎西城」の解説 きさいじょう【騎西城】 埼玉県北埼玉郡騎西町にあった室町時代から戦国時代にかけての平城(ひらじろ)。江戸時代初めの騎西(私市)藩の藩庁が置かれた城。湿地に築かれた沼城である。築城時期、築城者はわかっていないが、執事(関東管領)の山内上杉氏と室町幕府(足利将軍家)とが対立し、鎌倉から下総国古河(茨城県)に拠点を移した鎌倉公方(古河公方)の足利成氏が1455年(康正1)に、深谷上杉氏(山内上杉氏の支流)の庁鼻和(こばなわ)性順(上杉憲信)と長尾景仲が守る同城を攻略したという記録が史料の初見である。その後、騎西城は古河公方の前線拠点となり、城の整備が進んだ。16世紀初めには、種垂城(同町)から小田顕家が入城し、その後、顕家は忍城(行田市)の城主成田親泰の次男朝真を養子として同城の城主とした。北条氏の勢力が拡大する中、忍城の成田長泰とともに長尾景虎(のちの上杉謙信)に従ったが、長泰の上杉氏離反にともない、騎西城も北条氏方の城となった。1563年(永禄6)、越後の上杉輝虎(のちの謙信)は、相模の北条氏と甲斐の武田氏に攻められていた松山城(比企郡吉見町)の救援に向かったが間に合わず、輝虎は代わりに小田助三郎(成田家時)の守る騎西城を攻撃し、落城させた。その後、同城は再び北条方の城となった。1574年(天正2)には、深谷城(深谷市)奪還のため関東に出陣した謙信が、北条氏の大軍に包囲された関宿城(千葉県野田市)救援のため、菖蒲城(南埼玉郡菖蒲町)、羽生城(羽生市)、岩槻城(さいたま市)とともに、再び騎西城を攻撃した(第三次関宿合戦)。その後1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、同城は中山道を進んだ豊臣方の軍勢の攻撃にあい、落城した。北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入部すると、騎西城には松平康重が2万石で入城し、騎西藩とした。その後大久保忠常(小田原城主の大久保忠隣の子)が城主となったが、1632年(寛永9)に大久保氏の美濃国加納転封に伴い、天領(幕府直轄領)となったことから、同城は廃城となった。現在はかつての本丸周辺まで宅地化が進み、土塁や空堀の一部が残っているのみである。城跡には、現在、婦人会館となっている天守を模した建物があるが、かつての騎西城を復元したものではない。なお、騎西町による発掘調査により、同城の背後にあった障子堀や橋跡、井戸などが発見された(これらの遺構は保存のため埋め戻されている)。東武伊勢崎線加須(かぞ)駅、またはJR高崎線鴻巣駅からバスで福祉センター下車すぐ。◇私市城、根古屋城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報