阿多北方(読み)あたきたかた

日本歴史地名大系 「阿多北方」の解説

阿多北方
あたきたかた

古代の阿多郡南北に分割されて成立した中世の所領単位・地名田布施たぶせ高橋たかはしの二郷からなり、現在の金峰町尾下おくだり大野おおの池辺いけべ・高橋、加世田市高橋地域に比定される。阿多郡を中心に勢力をもっていた平宣澄が平氏与同の謀反人として所領を没収された後、阿多郡地頭職は建久三年(一一九二)駿河国を本貫とする鮫島宗家に与えられた(同五年二月日「関東下知状」旧記雑録)。鮫島宗家は建保六年(一二一八)阿多郡を南北に分け、南方を宗景に、北方を家高(行願)に譲与した(嘉元三年六月日「鮫島光家申状」二階堂文書)。貞永元年(一二三二)南北の境をめぐって宗景の子時景と家高の間で相論となり、時景が主張を撤回したことなどから、幕府は家高の主張を認めた絵図を作成して双方に与えた(同年一一月二八日「関東下知状案」同文書)。しかし家高は阿多郡内の新田宮領に対する年貢の減失、神王面の破損、政所への放火、神人への傷害などの濫妨行為を幕府に訴えられ、地頭職を没収された(宝治元年一〇月二五日「関東下知状案」新田神社文書)。代わって北方地頭となったのは二階堂行久であった(建長元年八月九日「関東御教書」二階堂文書)。当地は鎌倉殿を本所とする関東御領となり、年貢として御所用途一五〇貫文が賦課されるようになった(元徳元年一二月二五日「鎮西下知状」同文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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