日本歴史地名大系 「阿多郡」の解説
阿多郡
あたぐん
- 鹿児島県:薩摩国
- 阿多郡
〔古代〕
「日本書紀」に大隅隼人と並んで阿多隼人が登場することから(天武天皇一一年七月三日条など)、阿多は七世紀後期の段階では大隅とともに南九州を代表する地名で、薩摩半島地方をさしたとみられるが、八世紀の薩摩国の成立とともに薩摩国の一郡名となった。「古事記」上巻、「日本書紀」神代下にはホノニニギとコノハナサクヤヒメの結婚の神話がみえ、コノハナサクヤヒメのまたの名をカムアタツヒメといい、これは阿多地方に関連をもつものとされる。当郡は天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)にみえる隼人十一郡の一つで、「和名抄」名博本は管郷として阿多郷のみを載せるが、他の諸本によれば
〔中世〕
平安末期には阿多郡司(平権守)忠景が、当郡を拠点に薩摩一国と大隅国の一部にまで勢力を及ぼした。忠景は平家によって追討され(「吾妻鏡」文治三年九月二二日条)、女婿平宣澄が遺領を受継いだ。しかし鎌倉幕府の成立後、宣澄も平氏与同の謀反人として所領を没収され(建久三年一〇月二二日「関東御教書」島津家文書)、当郡の地頭職は駿河国を本願とする鮫島宗家に与えられた(同五年二月日「関東下知状」旧記雑録)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報