阿多郡(読み)あたぐん

日本歴史地名大系 「阿多郡」の解説

阿多郡
あたぐん

薩摩国の郡名で、古代は薩摩半島西岸の万之瀬まのせ川下流域から野間のま半島に及ぶ地域、およそ現在の金峰きんぽう町・加世田市などの地域にあたるとみられる。中世は万之瀬川下流右岸の金峰町と加世田市の一部(高橋)に限られたが、近世には中世に伊作いざく庄域(古代伊作郡)であった地域も加え、金峰町および吹上ふきあげ町のほぼ全域に相当する。近世の郡域は西は海に面し、北は日置郡、東は谿山たにやま郡、南は河辺郡に接した。

〔古代〕

「日本書紀」に大隅隼人と並んで阿多隼人が登場することから(天武天皇一一年七月三日条など)、阿多は七世紀後期の段階では大隅とともに南九州を代表する地名で、薩摩半島地方をさしたとみられるが、八世紀の薩摩国の成立とともに薩摩国の一郡名となった。「古事記」上巻、「日本書紀」神代下にはホノニニギとコノハナサクヤヒメの結婚の神話がみえ、コノハナサクヤヒメのまたの名をカムアタツヒメといい、これは阿多地方に関連をもつものとされる。当郡は天平八年(七三六)の薩摩国正税帳(正倉院文書)にみえる隼人十一郡の一つで、「和名抄」名博本は管郷として阿多郷のみを載せるが、他の諸本によれば鷹屋たかや田永たなが葛例かれい・阿多の四郷からなる。前掲正税帳に阿多郡の郡司位署が四行分みられる。大領は前欠のため不明であるが、あえて推測すれば阿多君の一族の者と考えられ、少領は外従八位下勲十等の薩麻君鷹白、主政は外少初位上勲十等の加士伎県主都麻理、主帳は无位の建部神嶋と薩麻君須加の二人となっている。薩麻君鷹白は天平宝字八年(七六四)に外正六位上から外従五位下に昇叙された薩麻公鷹白と同一人物と考えられる(「続日本紀」同年正月二日条)。「唐大和上東征伝」は鑑真の乗った第一〇次遣唐使第二船の到着地である秋妻屋あきめや(現坊津町に比定)を薩摩国阿多郡とする。郡名か郷名か不明ではあるが、現金峰町小中原こなかばる遺跡からは一〇世紀前後のものと考えられる「阿多」の文字を篦書・墨書した土器が出土しており、同町山野原さんやばる遺跡からもほぼ同時期の墨書土器が出土した。また須恵器を生産した金峰町荒平あらひら古窯跡群も当郡に所在したと考えられる。

〔中世〕

平安末期には阿多郡司(平権守)忠景が、当郡を拠点に薩摩一国と大隅国の一部にまで勢力を及ぼした。忠景は平家によって追討され(「吾妻鏡」文治三年九月二二日条)、女婿平宣澄が遺領を受継いだ。しかし鎌倉幕府の成立後、宣澄も平氏与同の謀反人として所領を没収され(建久三年一〇月二二日「関東御教書」島津家文書)、当郡の地頭職は駿河国を本願とする鮫島宗家に与えられた(同五年二月日「関東下知状」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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