日本の城がわかる事典 「難波田氏館」の解説 なんばだしやかた【難波田氏館】 埼玉県富士見市にあった中世の城館。埼玉県指定旧跡。荒川の支流の入間川と新河岸川にはさまれた低地に築かれた平城(ひらじろ)で、5万m2以上の規模があったと推定されている。平安時代末期から鎌倉時代はじめにつくられた難波田氏の居館である。難波田氏は武蔵七党(武士団)の一つの村山党の中心となった金子氏を祖とする一族である。戦国時代には、難波田憲重(弾正善銀)が扇谷上杉家の重臣として勇名をはせた。「松山城風流合戦」の挽話を残す人物でもある。憲重は、主君扇谷上杉朝定が討ち死にした1546年(天文15)の河越夜戦で、壮烈な戦死を遂げたといわれる。その後、難波田氏は、この戦いで勝利し武蔵の覇権を握った北条氏に臣従した。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)により北条氏が滅亡すると、難波田氏館も廃城となった。江戸時代前期に、幕府の許可により、この城館があった場所に難波田氏ゆかりの十玉院(修験道の寺院)が移転・再興されたが、この寺院も1872年(明治5)の修験道廃止令によって廃寺となった。現在、城跡は難波田城公園となっており、園内には難波田城資料館があり、資料館をはさんで東側は、往時の難波田氏館を復元した城跡ゾーン、西側は市内の古民家を移築復元した古民家ゾーンになっている。城跡ゾーンは発掘調査の成果や古絵図をもとに、戦国時代の難波田氏館の曲輪(くるわ)や水堀、土塁を復元したもので、わかりやすい解説のある説明板も用意されている。東武東上線志木駅からバスで興禅寺入口下車、徒歩約3分。または同線鶴瀬駅から徒歩約30分。あるいは同駅からバスで難波田城公園入口下車、徒歩約2分。◇難波田城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報