日本大百科全書(ニッポニカ) 「青梅事件」の意味・わかりやすい解説
青梅事件
おうめじけん
1951年(昭和26)9月17日から52年2月19日にかけて国鉄青梅線小作(おざく)駅(東京都)付近で5回にわたる列車妨害事件(ないし列車事故)が発生した。当初、事件は刑事事件の対象にもならなかったが、1年半後、一被告人の別件取調べ中の「自白」がきっかけとなり、本格的捜査が開始され、53年2月、6名が起訴された。しかし事件の物的証拠、目撃者はなく、肉体的拷問により強制された自白が唯一の決め手であった。ついで3月になると事件は俄然(がぜん)政治色を帯びる。すなわち、主謀者として共産党員2名を含む4被告が新たに登場し、事件は一挙に思想的背景をもった政治的目的による組織的計画的列車妨害事件ということになった。判決は一審(57年11月)、二審(61年5月)いずれも有罪とされたが、その根拠はやはり一部被告の一時期における自白であった。その後、当時国鉄が事件を駅関係者の過失として処理していたことを示す「事故原簿」が明るみに出るなど新展開を踏まえ、66年最高裁は事実認定に疑問を示し原判決破棄、高裁差戻しを命じ、68年3月東京高裁は全員無罪の判決を下した。「第二の松川事件」として注目された。
[荒川章二]
『石田穣一「青梅事件の上告審判決について」(『ジュリスト』346号所収・1966・有斐閣)』▽『座談会「青梅事件と今後のたたかい」(『労働法律旬報』565号所収・1965・労働旬報社)』▽『渡辺脩「青梅事件最高裁判決の意義と問題点」(『労働法律旬報』593号所収・1966・労働旬報社)』▽『田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第2巻』(1980・第一法規出版)』