「下山事件」「三鷹事件」と並び、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の1949年夏に起きた国鉄に絡む三大事件の一つ。GHQや政府が推進する人員整理を巡り、国鉄と労働組合の間で緊張が高まる中、国労と東芝労組の組合員計20人が汽車転覆致死などの容疑で逮捕、起訴された。当時、東芝でも労働争議があった。福島地裁は50年、5人の死刑判決を含め全員有罪とした。その後、被告を支援する「松川運動」が広がり、61年の仙台高裁差し戻し審で全員に無罪が言い渡され、63年に最高裁で確定した。
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1949年(昭和24)8月17日午前3時9分、東北本線松川駅付近で列車が転覆し、機関車乗務員3人が死亡した事件。人為的な鉄道線路破壊が原因であった。事件発生後1か月して、当時19歳の元国鉄工手の自白調書(いわゆる赤間(あかま)自白)に基づき、捜査当局は国鉄労組福島支部員と東京芝浦電気(東芝)松川工場労組員の共同謀議に基づく犯行と断定、最初の逮捕者を含め国鉄側10人、東芝側10人、計20人を起訴した。その大半は共産党員であった。
当時ドッジ・ラインに沿って行政整理、企業整備が進められていたが、9万5000人の解雇をめぐる国鉄労使の対決はその成否を握っていた。この対抗の最中に起こったのが下山(しもやま)、三鷹(みたか)事件であり、両事件で行政整理反対の闘争意識をくじかれた国鉄労組を三たび襲った怪事件が松川事件であった。しかも、国労福島支部は左派が指導権をもち、反対闘争の拠点支部の一つであった。また東芝は民間企業整備で最大の注目を集めていた経営で、松川工場では東芝労連の指導下でスト突入を予定していた。事件発生の翌日、増田官房長官は「今回の事件はいままでにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じものである」との談話を発表したが、捜査はこの談話の方向で進められ、地域的・全国的な労組の闘争、共産党の活動に大きな打撃を与えた。
裁判では、自白者も含め全被告が犯行を否認し、この自白の信憑(しんぴょう)性、取調べの際に拷問、強制があったか否かが最大の問題となった。一審の福島地裁は、1950年12月6日、死刑5人、無期懲役5人を含め全員有罪を宣告し、53年12月22日の二審仙台高裁判決も、3人を無罪としたほかは死刑を含む内容であった。しかし、上告審に至って、検察側が押収していた、被告らのアリバイを証明する「諏訪(すわ)メモ」の存在が明るみに出、検察の主張する共同謀議説が崩れた。このため最高裁は多数意見(7人、反対5人)をもって、仙台高裁差戻しを命じた。
裁判の流れを変えた背景には、新証拠の発見とともに大衆的裁判闘争の発展があった。国民に無実と判決の不当を訴える被告自身の通信活動(約15万通)、被告家族の全国行脚(あんぎゃ)による訴えにこたえ、支援体制は未曽有(みぞう)の広がりをみせた。弁護団は二審後173人という空前の規模に達し、志賀直哉(しがなおや)、吉川英治(よしかわえいじ)、川端康成(かわばたやすなり)、宇野浩二(うのこうじ)ら文化人も公正裁判を要請した。なかでも広津和郎(ひろつかずお)は1953年秋、雑誌『中央公論』に「真実は訴える」を発表し、第二審判決後は同誌に54年4月号から4年半にわたり「松川第二審判決批判」を連載、世論をリードした。58年3月9日には、総評、国労、日本ジャーナリスト会議、自由法曹団、国民救援会など四十数団体、および個人が参加する全国組織「松川事件対策協議会」が結成され、その後、松川大行進現地調査、松川劇映画運動(370万人観客動員)などを通じて公正裁判要求、無罪要求を国民世論にしていった。
こうした支援運動のなかで、最高裁決定を受けた仙台高裁は、多数の証人尋問、現場検証実施、書証提出など事件全体を調べ直し、1961年8月8日、「犯行の直接の決め手は自白のみ」、その自白の信用性は認められず「赤間自白なくして松川事件は存在しない」、実行行為の中心者とされる者のアリバイも明確であり、事件の根幹は大きく揺らいだ、として、被告全員に無罪を言い渡した。ついで、63年9月12日、最高裁は検察側上告を棄却し、14年の歳月を要した裁判は終わった。しかし、翌年8月、事件は時効となり、米軍謀略説もあるが、真相は現在に至るも不明である。
なお、無罪確定後、元被告人は国家の賠償を求めて訴訟を起こし、1969年4月23日一審、70年8月1日に二審判決が行われた。賠償額は7600万円余であった。
[荒川章二]
『松川事件対策協議会・松川運動史編纂委員会編『松川十五年』(1964・労働旬報社)』▽『松川運動史編纂委員会編『松川運動全史』(1965・労働旬報社)』▽『広津和郎著『松川裁判』上中下(中公文庫)』▽『広津和郎著『松川事件と裁判――検察官の論理』(1964・岩波書店)』▽『田中二郎他編『戦後政治裁判史録 第1、4巻』(1980・第一法規出版)』
1949年8月17日,東北本線の松川,金谷川間で列車が転覆し,機関士など3人が死亡した事件,およびこの事件をめぐる長期の裁判。この時期にはドッジ・ラインによる行政整理の強行,労使の対立の激化の中で,この年7月5日の下山事件,7月15日の三鷹事件と,国鉄をめぐる不穏な事件がつづいていた。事件の翌日の8月18日吉田茂内閣の増田甲子七官房長官は記者会見で,これは〈集団組織による計画的妨害行為〉であり,〈三鷹事件をはじめ各種事件は思想的底流において同じものである〉と捜査以前に事件を共産党の破壊工作だと示唆する政治的発言を行った。警察はこの事故は首切りに反対する計画的犯行だとして,国鉄労組福島支部や付近の東芝松川工場労組の共産党員らを逮捕し,検察はこの捜査にもとづいて20名の被告を汽車転覆致死罪で起訴した。翌50年12月6日第一審の福島地裁は,検察の主張を全面的に認め,死刑5名を含む全員有罪の判決を下し,さらに53年12月22日,第二審の仙台高裁も,死刑4名を含む17名有罪,3名無罪の判決を下した。しかし59年8月10日最高裁は,重大な事実誤認の疑いがあるとして,有罪部分を破棄し仙台高裁に差し戻した。仙台高裁は審理をくりかえし,61年8月8日全員無罪の判決を下し,さらに最高裁は63年9月12日,検察側の上告棄却の判決を下して,14年ぶりに全員無罪が確定した。事件が共産党弾圧のための政治的なフレームアップ(でっちあげ)である疑いは初めからあり,作家の広津和郎ら文化人が真実究明に努力し,労働組合をはじめとする松川事件対策協議会の被告への支援運動が広範に展開されたことも,無罪確定への力になった。戦後日本における最大の冤罪(えんざい)事件である。なお,この事故原因はレールの継目板を外し,犬釘を抜くなど人為的工作によることは確かで,CIAの陰謀説なども存在しているが,真相は不明である。
執筆者:藤原 彰
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下山・三鷹事件に続いておこった列車転覆事件。米軍謀略説も流布したが真相不明のまま時効成立。1949年(昭和24)8月17日午前3時9分,東北本線松川駅(現,福島市松川町)北方約1.8kmの地点で上り412列車が脱線・転覆して機関士ら3人が死亡。捜査は共産党関係者の介在を想定して進められ,国鉄・東芝両労働組合員の共同謀議による犯行とする元国鉄線路工手赤間勝美の自白を基礎に,計20人が逮捕・起訴された。公判では全被告が犯行を否認し,裁判は長期化。63年の無罪判決確定までの14年間に,一審・二審の有罪判決,最高裁の差し戻し判決,差し戻し審での無罪判決,最高裁の検察側上告棄却判決と,通算5度の裁判が行われた。小説家広津和郎(ひろつかずお)らが活発な裁判批判を展開。
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…《文学的散歩》《文学の三十年》など回想的文学も多い。松川事件にさいしては広津和郎に呼応して《世にも不思議な物語》(1953)を書いた。文学への執念を最後までもちつづけた文学の鬼的存在といえよう。…
…昭和10年代には独自の〈散文精神〉を説き,《巷の歴史》(1940)に庶民生活を描いた。戦後には松川事件と取り組んだ《松川裁判》(1958)や回想をつづった長編《年月のあしおと》(1963)などがある。大正・昭和にわたる文学活動の基調には,自由主義的なヒューマニズムと散文精神が一貫している。…
※「松川事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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