日本歴史地名大系 「須淵村」の解説 須淵村すぶちむら 愛知県:岡崎市須淵村[現在地名]岡崎市須淵町矢作川の支流乙(おと)川の中流が南の岩戸(いわと)村より北東に湾曲する淵に沿って立地。中世、中山(なかやま)庄に属したという。松平氏二代泰親の南進に伴い松平氏領に属し、以後岡崎の封土となる。宝暦一二年(一七六二)幕府領、明和七年(一七七〇)岡崎藩領として明治に至る。「三河古軍記」に、家康が北隣の麻生(あそう)村(現額田郡額田町)付近の狩の際に当村鍛冶屋(かじや)の天野源太郎屋敷に宿泊したとき一〇〇人余の敵襲を受けたが、麻生村倉橋大郎左衛の準備していた松明により撃退させたと記す。 須淵村すぶちむら 愛知県:東加茂郡旭町須淵村[現在地名]旭町須淵矢作川の右岸にあり、支流明智(あけち)川に沿う。東は現岐阜県恵那(えな)郡串原(くしはら)村、南から西にかけて浅谷(あざかい)、北は現恵那郡明智町に接する。集落は河岸段丘上山麓に点在。現主要地方道豊田―明智線が通る。慶長八年(一六〇三)明知(あけち)村(現明智町)に陣屋を置く旗本遠山利景の知行地となり明治に至る。天明六年(一七八六)の村鑑銘細書上帳(須淵区有)によると、本高五石・御改出石一三石余・新田高五石余・河欠永引六斗余で残り高二三石余とあり、内訳は中田二反歩余・下田七反歩余、中畑二反歩余・下畑一町一反歩余、新田畑六反歩余である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by