飫肥北郷(読み)おびきたごう

日本歴史地名大系 「飫肥北郷」の解説

飫肥北郷
おびきたごう

島津庄寄郡のうちで、郷域は現在の北郷町域から日南市吉野方よしのかた楠原くすばる板敷いたじきなどを含む一帯に比定される。なお鵜戸うど山地を境として郷内を東西に分け、東方を山東さんとう西方山西さんせいとよぶ呼称もあった。建久図田帳には島津庄寄郡のうちとして「飫肥北郷四百丁」とみえ、同南郷とともに宮崎郡内で地頭島津忠久。なお応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記でも田積は変わらない。建武五年(一三三八)五月二九日、那賀(日下部)盛連は、南朝方の肝付兼重・野辺盛忠らを攻撃するため北朝方の日向国大将畠山義顕(直顕)に属して「飫肥南北・櫛間院」に向かったところ、盛忠は降参した(同年七月七日「日下部盛連着到状」郡司文書)

康永年間(一三四二―四五)頃、「島津庄日向方飫肥北郷」弁済使職を水間栄証・忠政父子が相伝の所職と称して地下を押領し、年貢などを抑留したため、島津庄の領家である奈良興福寺一乗いちじよう院の政所は同三年一〇月三日水間氏を解任、長谷場鶴一丸を弁済使代官職および収納使職に任命した(「一乗院政所下文」長谷場文書など、以下断りのない限り同文書)。同月八日、給主である興福寺僧琳乗は鶴一丸に両職を安堵し、年貢の三分の二を確実に納めることを命じ、残り三分の一は代官得分と認めている(一乗院僧琳乗宛行状)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報