飯山村(読み)いいのやまむら

日本歴史地名大系 「飯山村」の解説

飯山村
いいのやまむら

[現在地名]佐伯町飯山

おにじよう山の東麓にある山間の村。木野この川の源流にあたる谷あいの平地に人家と田畑が展開する。西は周防国玖珂くが宇佐うさ(現山口県玖珂郡錦町)に対する。村名は「いいやま」ともよむ。弘治三年(一五五七)一〇月二三日付の毛利隆元判物(「閥閲録」所収粟屋縫殿家文書)に「山里之内飯山之事」とみえ、当時山里やまざとと総称される地の内にあり、粟屋縫殿元通が飯山代官職に任じられている。天正一三年(一五八五)四月二八日付の毛利輝元判物(同文書)には「津田之畑飯山」とあり、この頃は津田つだの内に属していたのであろうか。


飯山村
いいやまむら

[現在地名]厚木市飯山・みどりおか三丁目

東は及川おいがわ村、南は下古沢しもふるさわ村、西はすす(現愛甲郡清川村)、北は上荻野かみおぎの村・中荻野村に接する。村の中央を小鮎こあゆ川が西から東へ流れる。大山道が南から北に通じ、小鮎川に沿って丹沢たんざわ道が通る。

和名抄」の郷名に「印山」とある。長谷寺(飯山観音寺)蔵嘉吉二年(一四四二)四月五日付鐘銘に「毛利庄飯山新長谷寺」とある。永正一六年(一五一九)四月二八日宗瑞(伊勢長氏)箱根領注文(県史三)に「二百くわん文 い山」とある。また天正一七年(一五八九)一二月晦日北条家朱印状写(同書)に「井山」とある。当村に鋳物師山城が居住し、隣村荻野の鋳物師とともに大筒を鋳造したが、詳細は不明。小田原衆所領役帳に幻庵知行分のうちに御新造知行分として「百六十貫三百八十七文 飯山同人」とある。


飯山村
いのやまむら

[現在地名]羽咋市飯山町

千代町ちよまち村の東、碁石ごいしヶ峰西麓端に立地。内浦街道に沿う街村で、宿駅が置かれた。中央を飯山川が北流。天正八年(一五八〇)閏三月三〇日の織田信長黒印状(長文書)に「飯山」とみえ、信長方の長連竜の飯山周辺での戦功を賞している。同年九月能登へ入部した前田利家が一時期当地滞陣したとの説がある(「前田創業記」加越能文庫)正保郷帳では飯山村・藪野うどの村が並記され、高六五九石余、田方三六町二反余・畑方七町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三九七石、免六ツ三歩、小物成は山役四二六匁・苦竹役一四匁、鳥役六匁(出来)、鍛冶役五六匁(うち六匁出来)、室役六〇匁(うち一〇匁退転)、紺屋役六〇匁(うち一五匁出来)、油役一四匁(出来)、酒役一〇匁(三箇国高物成帳)


飯山村
いいやまむら

[現在地名]宇都宮市飯山町

北は嘉多蔵かたくら村・沓掛くつかけ(現今市市)、東は篠井しのい村、南は小池こいけ村と接する山村で、形は茄子に似て北は細く南が丸い。承平の乱に際し平将門が当地を兵糧所となしたため飯盛いいもり山と称し、これが村名となったと伝える(地誌取調)。文明三年(一四七一)閏八月一八日の昌宣衣服料送文(輪王寺文書)に「十貫四十一文 飯山郷」とみえ、日光山輪王寺常行堂領で、衣服料として納められた分が代官昌宣より進納されている。同じ頃の亥歳には八貫文が納められ、残る二貫四一文の未進は八月中に納めるとあるので(亥歳八月一八日「昌宣衣服料送文」同文書)、一〇貫四一文が定額であった。


飯山村
いやまむら

[現在地名]浅井町飯山

徳山とくやま村の西、草野くさの川右岸に位置。「輿地志略」に「相伝往古此地に飯山寺と号する寺あり、故に名とすといふ、今に寺跡顕然たり」と記す。「東浅井郡志」によれば、飯山寺は役小角(泰澄とも)の草創といい、下草野五山の一で、のち真言の道場となり真言秘密の修法の論疏数巻の断篇・空海直筆両界曼陀羅・仏舎利塔などを残していたが、元亀三年(一五七二)織田信長の兵火により焼失、天正一一年(一五八三)に住僧が還俗して寺号は自然と村名に化すに至ったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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