日本歴史地名大系 「厚木市」の解説 厚木市あつぎし 面積:九二・八六平方キロ神奈川県の中央、相模平野の一部で相模川中流の右岸から西方の大山(一二五一・七メートル)までが市域で、西部の山地、中央部の台地、東部の低地の三段階に分けられる。西部の山地は最も高い大山山地と、その前面の一段低い中津(なかつ)山地、それに続く鳶尾(とびお)山地・白山(はくさん)丘陵・高松山(たかまつやま)丘陵・津古久(つこく)丘陵が連なる。この山地・丘陵の間に盆地が形成されている。中央部の台地は、山地の前面に形成され、中津原・尼寺(あまでら)原・長谷(はせ)原・愛甲(あいこう)原は畑作中心の地域である。東部の低地は水田耕作が盛んで、市街地もこの低地に形成されている。河川は水源を山中湖に発する相模川を本流とし、中津川は中津原と荻野(おぎの)原を分け、相模川に流入する。荻野川と小鮎(こあゆ)川は妻田(つまだ)で合流し、さらに中津川と交わり、相模川に注ぐ。恩曾(おんぞ)川は上古沢(かみふるさわ)盆地の水を集めて、下流は大山山地からの湧水を集めた新玉(しんたま)川に下流で合流し、末流は相模川へ流入する。市域はかつて愛甲郡および大住(おおすみ)郡に属し、厚木の名は建武五年(一三三八)閏七月一三日の夢窓疎石書状(県史三)の「崇寿寺領相州厚木郷事」とあるのを初見とする。〔原始〕市内の先土器時代の遺物は、荻野川流域の中荻野(なかおぎの)で二ヵ所、尼寺原台地の東端恩名(おんな)、玉川上流の七沢(ななさわ)で発見されている。縄文時代の遺跡として、中津川と荻野川に挟まれた荻野原台地上に、鳶尾遺跡(草創期―後期)・上三田(かみさんだ)遺跡(中期)・子合頭(こあいがしら)遺跡(早期)・山(やま)ノ上(うえ)遺跡(後期)などがある。尼寺原台地東端に林王子(はやしおうじ)遺跡(中期)・林大坂上(はやしおおさかうえ)遺跡(中期)・南毛利(みなみもうり)中学校遺跡(中期)などがある。玉川流域に上古沢南(かみふるさわなん)遺跡(早―中期)・小野若宮(おのわかみや)遺跡(前期)・七沢久保屋敷(ななさわくぼやしき)遺跡(中期)などがある。玉川と恩曾川に挟まれた台地上には、愛名鳥山(あいなとりやま)遺跡(早期・弥生時代)・温水上原(ぬるみずうえはら)遺跡(中期)などがある。弥生時代の遺跡として、尼寺原台地上の厚木自動車部品工場内遺跡・子の神(ねのかみ)遺跡、長谷原台地先端の船子宮(ふなこみや)ノ里(さと)遺跡、玉川流域の岡津古久(おかつこく)遺跡がある。古墳時代の遺跡として、長谷原台地の東端船子に位置する地頭山(じとうやま)古墳は前方後円墳(五世紀前半頃)、玉川流域の岡津古久古墳(五世紀前半頃)、荻野原南東端に位置する方墳の山ノ上第二号古墳(五世紀後半頃)、小鮎川の南方台地上にあり、多くの埴輪を出土した登山(どうやま)古墳(六世紀頃)、中津原(なかつはら)台地のうち依知(えち)地区に点在する上依知古墳群、荻野原台地の東端上三田(かみさんだ)古墳群などがある。古墳時代以降平安時代までの遺跡として、前記の子の神遺跡・鳶尾遺跡などがある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「厚木市」の意味・わかりやすい解説 厚木〔市〕あつぎ 神奈川県中部,相模平野の北部にある市。 1955年厚木町,南毛利 (なんもうり) 村,睦合村,小鮎村,玉川村が合体し市制施行。同年相川村,依知 (えち) 村を編入。 56年荻野村編入。中心市街地の厚木は,相模川と支流の中津川,小鮎川の合流点にあり,相模川水運の河港として発達。木材の集散地であったので地名は集木 (あつめぎ) に由来するという説もある。江戸時代は,矢倉沢往還の宿場町としてもにぎわった。 1927年小田急電鉄小田原線が開通し,第2次世界大戦後は国道 246号線,129号線が整備されて交通の要地となった。自動車,電気機器などの工場がある。 68年南郊に東名高速道路のインターチェンジが設置され,付近は首都圏の流通基地の1つとなって倉庫や工場が建設された。北部には愛川町にまたがる内陸工業団地がある。東京,横浜への通勤者がふえ,各地に大規模な住宅団地が立地。西部の丹沢山麓には広沢寺温泉,七沢温泉があり,大山の登山道が通っている。また,厚木神社などの古社寺,旧跡があり,郷土芸能「相模人形芝居」は有名。重要無形民俗文化財に指定されている。市域の一部は丹沢大山国定公園に属する。国道 246号線,129号線のほか 271号線,412号線が通る。面積 93.84km2。人口 22万3705(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by