日本歴史地名大系 「飯谷村」の解説 飯谷村いいたにむら 徳島県:徳島市旧勝浦郡地区飯谷村[現在地名]徳島市飯谷町宮井(みやい)村の南、蛇行しながら北流する勝浦川両岸の山間部にある。北東は田浦(たのうら)村(現小松島市)、南は沼江(ぬまえ)村(現勝浦町)。「みよしき」などによれば、天正四年(一五七六)一二月、三好長治の異父兄細川真之は長治と対立して勝瑞(しようずい)城(現藍住町)を出て、「幾生の郷井伊谷と申す所」の福良出羽(連経)を頼ったとある。「古城諸将記」には福良氏の拠る飯谷城を記している。慶長二年(一五九七)の分限帳に飯谷とみえ、三三三石余が武市十蔵知行分。同九年の検地帳(徳島城博物館蔵)では高三六七石余。正保国絵図では高三六七石余。 飯谷村はんだにむら 兵庫県:城崎郡城崎町飯谷村[現在地名]城崎町飯谷結(むすぶ)村・戸島(としま)村の東に位置し、南は下鶴井(しもつるい)村(現豊岡市)。円山(まるやま)川の支流飯谷川が流れる。鎌倉時代は下鶴井庄に含まれたとみられる。江戸時代の領主の変遷は湯島(ゆしま)村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高二三二石余。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図では高二〇三石余。宝暦六年(一七五六)の村明細帳(飯谷区有文書)によると延宝五年(一六七七)に豊岡藩による地詰があり、高二一六石余・反別二三町八反余。家数九二・人数三六〇、牛五。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by