飯高村(読み)いいだかむら

日本歴史地名大系 「飯高村」の解説

飯高村
いいだかむら

[現在地名]八日市場市飯高・飯多香いいたか城下ねごや公崎こうざき

片子かたこ村の東に位置する。香取郡に属し、南は借当かりあて川を境に匝瑳そうさ長岡ながおか村。中世は匝瑳北条そうさほうじよう庄に属し、在地領主は千葉氏系の飯高氏。神代本千葉系図は千葉介常兼の庶子である匝瑳常広の子息に飯高次郎将胤を載せ、次郎親常・太郎胤親と継いで、その分族には松崎・山倉両氏がいる。寛元元年(一二四三)一一月一一日の香取造宮所役注文(香取文書)に「内院中門一宇匝瑳北条飯高五郎跡」とみえ、飯高氏は匝瑳北条庄地頭であった。「吾妻鏡」同二年八月一六日条に飯高弥次郎左衛門尉が「鶴岡馬場之儀」のうち十列(一種の競馬)の役と流鏑馬の的立役を務めたとあり、建長二年(一二五〇)三月一日条では飯高五郎跡に「造閑院殿雑掌」(内裏再建)が割当てられている。

飯高村
ひだかむら

[現在地名]橿原市飯高町

現橿原市最西北端、曾我川東方に所在。古代の飫富おふ郷の地域。飯高は飫富の字形類似による誤写と考えられ、東方はおお(現磯城郡田原本町)がある。西大寺田園目録に「十市郡廿条四里四坪内四段。字飯高」とみえ、日高ひだか池・飫富おほ橋の俗称が残る。

近世初期は旗本平野長泰領(二八四・四石)および幕府領(代官楢村監物、二四・九六石)に分れ、幕府領は元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、のち同藩の二割半無地高増政策で村高三一・二一二石。

飯高村
いいだかむら

[現在地名]七宗町上麻生かみあそう 飯高・戸刈とがり

上麻生村本郷の北東、飛騨川・神淵かぶち川の合流地点に位置する。上麻生村の枝村で、戸刈・カヨウの二組に分れる。元禄郡高寄帳に高三九石余とある。「濃州徇行記」によると高八三石余、田畑九町八反余、民戸は山腹にあり、家数二八・人数一一五、馬二。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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