日本大百科全書(ニッポニカ) 「森藤右衛門」の意味・わかりやすい解説
森藤右衛門
もりとうえもん
(1842―1885)
自由民権家。号紫藤園(しとうえん)。天保(てんぽう)13年3月28日出羽国(山形県)酒田に生まれる。家は屋号を唐仁屋(からにや)といい、酒田三十六人衆に入る旧家で酒造業を営む。酒田の儒医須田文栄(ぶんえい)に漢学を学び、文栄の師伊藤鳳山(ほうざん)にも思想的な影響を受けたと思われる。長身雄偉、文章家、雄弁家と伝えられる。戊辰(ぼしん)戦争には酒田町兵一番隊に属して参加。1869年(明治2)、酒田民政局が創立した学而(がくじ)館の句読師(教師)となった。73年末から酒田県に起きた農民騒動(わっぱ騒動)に加わり、県の秕政(ひせい)について左院や元老院などに建白を繰り返した。上京の際、盟友松本清治(せいじ)と水杯を交わして別れを惜しんだことは命がけの決意を物語っている。自ら原告となり過納した貢納金の返還を求める裁判に入り、78年には農民側を勝利に導き、6万3000余円の下げ戻し金を獲得した。この運動のために自身の財はすべて失ったという。植木枝盛(えもり)の『民権自由論』(1879)の表紙に佐倉惣五郎(そうごろう)、福沢諭吉(ゆきち)、板垣退助(たいすけ)とともにその肖像が描かれており、当時民権家として高く評価されたことがうかがわれる。80年政治結社「尽性(じんせい)社」を創設、国会開設を訴えて回り、翌年には両羽(りょうう)新報社をおこして新聞を発行。同年酒田町戸長に推され、そのころ飽海(あくみ)郡長と対立しその排斥運動を行う。84年県会議員に選ばれたが、在職中の明治18年9月16日山形の旅館で胃病のため死去。享年44、酒田の大信(だいしん)寺に葬られる。
[堀 司朗]