馬瀬口村(読み)ませぐちむら

日本歴史地名大系 「馬瀬口村」の解説

馬瀬口村
ませぐちむら

[現在地名]大山町馬瀬口

常願寺川中流左岸の扇頂部近くにあり、常願寺川支流いたち川の南に位置する。常願寺川氾濫は当村付近の堤防決壊によってしばしば起こった。馬瀬口の地名は一六世紀半ばに越中にしばしば侵攻した上杉謙信が常願寺川渡河の際、馬の背まで水に没したところから生れたと伝える。応永二四年(一四一七)飛騨国高原たかはら田頃家たごろけ(現岐阜県上宝村)永昌えいしよう寺に馬瀬口村五十嵐小豊次が大般若経二〇〇巻を寄進し、うち一八九巻が現存している。正保郷帳では高一千三六石余、田方六七町六反余・畑方一町五反、新田高九四石余。加賀藩領から万治三年(一六六〇)以降富山藩領。町役所御用留(前田家文書)によると、延宝三年(一六七五)馬瀬口村より下番しものばん村・善名ぜんな村が分村した。

馬瀬口村
ませぐちむら

[現在地名]御代田町馬瀬口

浅間山の南麓、北国脇往還(現国道一八号)沿いにあって三ッ谷みつや・馬瀬口の二集落よりなる。

村名は「延喜式」記載の勅旨牧塩野しおの牧の南縁にあるところから由来し、本来は「柵口」であり、この辺りが上柵、上前田原かみまえたばら辺りが下柵であったという説がある。天和年中(一六八一―八四)絵図に三ッ谷は「赤土新田」とあるという(旧版北佐久郡志)

北国脇往還が整備されるに従い、追分おいわけ宿(現軽井沢町追分)小諸こもろ城下(現小諸市)の間約三里半はそのほとんどが山麓荒野であったため、馬瀬口・三ッ谷等は間の宿的性格を持つに至り、明治一一年(一八七八)においてなお一六六戸の村に馬九三頭を有し「農間中馬稼」に従っていた(「北佐久村内概況調書」北佐久郡志)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報