駒田好洋(読み)こまだ・こうよう

朝日日本歴史人物事典 「駒田好洋」の解説

駒田好洋

没年:昭和10.8.11(1935)
生年:明治10(1877)
活動写真弁士本名万次郎,大阪生まれ。青年時代に上京し,京橋の宣伝広告代理業目屋店員となる。当時輸入された映画ヴァイタスコープの巡回興行に参加,弁舌の巧みなことから映画の説明者となった。当時は説明者を活動写真の弁士(活弁)といったが,明治30(1897)年歌舞伎座での日本製最初の活動写真公開興行で弁士を務めたのち独立した。説明中「頗る非常」の言葉を連発したことから「頗る非常大博士」の愛称で人気弁士となる。「活弁」は無声映画時代は人気のあった職業だが,日本映画がトーキー化を迎えた昭和6(1931)年を境に,次第に姿を消していった。<参考文献>田中純一郎『日本映画史発掘』

(長崎一)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「駒田好洋」の解説

駒田好洋 こまだ-こうよう

1877-1935 明治-昭和時代前期の活動弁士
明治10年7月1日生まれ。もと東京京橋の広告代理業広目(ひろめ)屋の店員。明治30年東京でのバイタスコープ(活動写真)興行に説明者(弁士)としてくわわる。のち独立して日本率先活動写真会を主宰し,全国巡業,「頗(すこぶ)る非常」の口ぐせで人気があった。昭和10年8月11日死去。59歳。大阪出身。本名は万次郎。

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世界大百科事典(旧版)内の駒田好洋の言及

【活弁】より

…ときには説明そのものをも指す。その元祖は,1897年に東京の神田錦輝館のバイタスコープ(これが〈活動写真〉と名づけられた)の公開のときに,〈前説(まえせつ)〉をするために現れた駒田好洋で,それまでは活動写真の内容を演説口調で説明する単なる口上であったものを,いわゆる弁士口調で〈活弁らしい活弁〉のパターンをつくった最初の人といわれる。初期の映画撮影所の風景を描いたルネ・クレール監督《沈黙は金》(1947)などによれば,サイレント映画の説明者は日本だけの特有の存在ではなかったことがわかるが,しかし日本の〈弁士〉のように,映画説明者がトーキー初期に至るまで〈映画価値を左右し,あるいは出演スターをしのぐほどのポスター・バリューをもち得た例はない〉(筈見恒夫)とされる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」