高井田村
たかいだむら
南は網掛川で段土村に、西はその支流宇曾木川で木田村に接する。北は竜門司坂を経て小山田村に通じる。文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)によると、秀吉の蔵入分の加治木のうちに「高井田村」二五九石余がみえる。寛永八年(一六三一)の島津家久知行目録(旧記雑録)には、加治木島津氏領として高六二六石余とある。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では高二五九石余。「三州御治世要覧」には村名がみえず、「以前高井田村為有之由候得共、何比禿候哉、当分無之由候」とあり、一時廃村となって木田村に編入されたらしい(加治木郷土誌)。
高井田村
たかいだむら
[現在地名]東大阪市高井田・高井田〈本通一―六丁目・西一―六丁目・東一―四丁目・中一―六丁目〉・長栄寺一―二丁目
森河内村の南にある。近世には若江郡に属したが、当地の鴨高田神社が渋川郡の同名式内社に比定されるので、古代には渋川郡であったかもしれない。東の村境を長瀬川が流れる。暗峠越奈良街道が東西に通る。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳・延宝年間(一六七三―八一)河内国支配帳ともに高一千七一一石余、幕府領。
高井田村
たかいだむら
[現在地名]柏原市高井田
安堂村の南、大和川の右岸、川に面して位置する。集落の北はすぐ低い山地となり、平尾山あるいは高尾山・信貴山へと続く。南の川向いは国分村で、両村の間には江戸時代は渡船があった。明治三年(一八七〇)からは国豊橋が架かっている。高井田の地名の起りと関連して、古代の竹原井、または竹原井頓宮が当地にあったとする説があるが(河内志・河内名所図会ほか)、太平寺に比定する説もある(柏原市史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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